Q. テクノロジーは人を幸せにするのか?

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そんな疑問を持ち出したのは自ら事業立ち上げを進めていた2015年ごろです。 このような一見荒唐無稽な問いも、ふと飲み会などの場でクチにしてみると、非常に多くの起業家やエンジニアが共通性のある問いを抱えていることに気付かされました。

事業について考える際に欠かせないものが哲学的思考です。 「哲学」という単語を使うと何やら高尚なお話のように聞こえてしまうかも知れませんが、実際はそんな大層な話ではなく要するに「普通だと思っていることを疑え」というスタンスのことです。「なぜなぜを繰り返せ」と言うとわかりやすいです。

例えばあなたが従業員の体調不良を検知して管理者に通知するデバイスを開発しようとしているとします。 従業員の身体的リスクの低減、チームリーダーが管理にかけている工数の削減、従業員のタスク量と体調に関する定量的なデータの蓄積、とメリットたっぷりです。よし、これはやるしかない。

しかしここに哲学的思考のスタンスを持ち込んであらゆるものを疑いにかかってみます。

例えば「身体的リスクを低減させた方が良いのは何故か?」と考えるとここにステークホルダーが何人かいることがわかります。 「経営者」「管理者」「チームリーダー」「メンバー」と分けるとして、「メンバー自身にとって身体的に健康である方が好ましいに決まっている」「チームリーダーにとって誰かメンバーが体調不良になればスケジュールが遅れるので無理して体調不良になるくらいなら休ませた方が良い」「管理者にとっては全ての現場に赴く必要なく全体が把握できると非常に効率が良い」「経営者にとって大事故や労働災害が起こるリスクを安価なサービスで回避することができればそれは好ましいこと」と、どうやら三方よし、どころか四方よしが狙えそうです。

次に「チームリーダーの管理工数を削減するのは本当に好ましいのか?」と疑ってみます。 要するに朝礼で体調確認したり、状況についてリーダーと会話したり、そういう機会が減るということです(デバイスが代わりにやってくれるんです!なんて素晴らしい!)。 「経営者にとって、工数削減=コスト削減なので人員削減にも繋がり好ましい(人が仕事しない方が嬉しい)」「管理者にとって、チームリーダーの力量に左右されるファクターが減ればリスクも減るので好ましい(人が仕事しない方が嬉しい)」「リーダー本人にとってはメンバーの状況把握の解像度が下がり接点も減ることで管理しにくくなる。また管理工数が減ったところで別の仕事が回ってくるだけなので仕事は楽にはならない」「メンバーにとってリーダーとの接点が減ることで不安感が増す」と、どうやら雲行きが怪しいです。 ここに「工数削減は正しいのか?」という新たな命題が出現します。

同じように考えていくと、データの蓄積についても「データの蓄積は誰にとっての直接的なメリットがあるのか?」という疑問が出てきます。

最初は素晴らしい文句なしのビジネスプランに見えたものも哲学的思考で掘り下げるとどんどん怪しくなっていくのが面白いところです。これらを掘り下げて掘り下げて納得してまた掘り下げて。最終的に全てを整理してスッキリした状態が「腑に落ちる」というやつです。

さて先程の「工数削減は正しいのか?」という懐疑的スタンスは非常に大きなブレイクスルーのきっかけになり得ます。 何故なら工数の削減を金銭的に換算して導入するシステムの価値を測るというのは至る所で行われている「常識」だからです。ぜひ常識を疑ってみましょう。

ここでは詳述を避けますが、このような哲学的思考を繰り返すと大抵たどり着くところがあります。 「果たして〇〇は人間を幸せにするのか?」という命題です。 結局のところ人間は幸せになるためにあらゆる活動を行なっていると言っても過言はありませんから当たり前と言えば当たり前です。 そこまでたどり着く途中で「経済成長することは正しいのか?」というような命題を通過したこともあります。ビジネスモデルについて考えていたはずなのにです。

定義の明確化について説いたウィトゲンシュタインという哲学者がいます。 「明確化」の逆は「安易な一般化」であって、言葉の定義をきちんと整えないと論理そのものが無意味になる、という注意喚起です。わかりやすい一例が「美人は得だ」です。 「得」ということは「良い人生を生きることができる」と言えると思います。しかし「良い人生」の定義は人それぞれです。お金を手に入れることを人生で最優先する人もいれば、家族と共に過ごす時間があることで満ち足りた気持ちになる人もいます。つまり「得」の定義次第で変わってしまう「美人は得だ」という文章は、実質的に何も意味を持たないわけです。

ではタイトルの「テクノロジーは人を幸せにするのか?」という命題について、ここでは「幸せ」の定義が鍵になるということがわかります。「幸せ」の定義は先程の「得」と近いものがあって千差万別です。 したがってここでは「対偶」を取り出してみましょう。対偶は「AはB」に対して「AでなければBではない」という命題のことです。ここでは「テクノロジーが無いと人は幸せではない」となります。 この命題は明らかに間違っていることがわかります。 もしこの命題を肯定すると、自分たちの世代に比べて親の世代、親の世代に比べて祖父母の世代、さらに曽祖父母の世代、と皆「不幸だった」と烙印を押すことになるのです。私はとてもそうは思えません。 対偶が正しいと証明できた場合、元の命題も正しいと言えます。 つまりここでわかることは 「テクノロジーがあるから人は幸せとは限らない。むしろ無関係に近い」 ということではないでしょうか。 つまり、何か技術を導入したことで人を幸せにしたつもりでいたらそれは大きな欺瞞だということです。

テクノロジーを否定するのか?そうではありません。

何かを効率化したり、便利にすることによる便益を疑うべきだと私は言いたいのです。 産業革命以降の機械化によって失われた何か(美?風合い?それとも渋さ?)については考えるのと同様に、工数を削減することで解雇される人のことや、シェアリングエコノミーという新たな搾取のスキームの発生によって苦しめられる少数派の人たちのことや、AIの想定外の入力によって不利益を被る100万人に1人のことについて考える必要があるのです。 「そのテクノロジーは果たしてみんなを幸せにしているのか?」と。

当然先程の事例のように、三方よしどころか四方よしを実現するようなテクノロジーもビジネスアイディアも沢山あります。 本質を見極めて、人生の貴重な時間と労力を無駄に使い切らないために、常に懐疑的なスタンスで物事を考えることは極めて重要です。

このポストの内容は以下の書籍の一部(原文)です。興味のある方はぜひ書籍をお求めください。

幸せなIoTスタートアップの輪郭

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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