事実はデータに、理念は直感に従う

投稿者: | 6月 16, 2021

19世紀の物理学者ジェームズ・マクスウェルは有名なマクスウェルの方程式を考案した人物だが、その功績は物理学的にだけなくそのプロセスの意味合いで論理科学の領域で特筆すべきである。
というのは、彼は物理学の世界で初めて「こうあるべきだ」を言った人だったからだ。
物理学は観測事実がまずあり、それに当てはまるように仮説を構築していく。そして仮説と事実が明晰に一致したときにその理論は正しいと認められる。
マクスウェルはその方程式の一部を観測事実なしに途中から「予想」した。
簡単にいうと電場、電束密度、磁場、磁束密度の関係式なわけだが、ある程度のところまで立証できたら「あとはこうなってるはずだ。何故ならそうであれば美しいからだ」と言ったとか言わなかったとか。
いずれにせよ彼の生前に方程式の正しさは証明されることはなく、死後に他者によって実証される。 近年ではさして珍しいことではないかも知れないが、当時の物理学では何事も観測からスタートするのが常識であり、このような「予想」のアプローチを取ったのはマクスウェルが最初ではないかと言われている。

しかし「正しさ」「美しさ」を学問の世界に持ち込む歴史自体は古い。例えばその典型が天文学だ。

紀元前にプトレマイオスで完成され、その後10世紀以上信じられていた天動説だが、元々はピタゴラスが何の観測事実や根拠もなく哲学的文脈で言い出したものだった。だがしかし、そこには美しさがあった。地球を中心に全ての天体が等速円運動をしているという。 その後多くの観測事実がその「独善的な美しさ」を攻撃したのだが、それに対して学者たちが皆アレコレと屁理屈を並べながら「あくまで天動説ありき」のパッチワークを繰り返していった。
そしてその究極がプトレマイオスであり、その論理はもはや複雑怪奇で常人には理解に苦しみ、かつ依然多くの観測事実との矛盾を孕んでいた(が当時は観測データの共有化など皆無だったためきちんとした指摘を受けることなくプトレマイオスの理論は広く世の中に受け入れられた)
当時すでにアリスタルコスという現在の地動説に近い理論を唱える人間はいたがその後10数世紀に渡って黙殺された。 自分勝手な「正しさ」に囚われ過ぎた結果である。地動説だって美しいのに。

時に直感が物事を言い当てることもある。

脳科学によると、直感というものは特定のシナプスの繋がりが日常的に緊密にトレーニングされていた結果、とあるインプットに対してその研ぎ澄まされたルートにスパッと電流が流れることによって発生するものだという。 つまり直感の意味合いは「経験や日々の積み重ねから鋭敏に導かれた解答」のことであり決して当てずっぽうのことではない。

野球のスイングで「球筋がよく見えていたので外角高め一杯と思いましたが思いっきり振り切りました」とかインタビューで答える選手がいるかも知れないが、スイングには予備動作も含めると0.3秒以上はかかると言われる。一方時速150kmのボールはマウンドからホームベースまで0.4秒で到達する。人間の時間感覚では0.1秒以下の分解能を持つ人は常人を超えた鋭敏さを持つと言われる。よく視覚に伴う反射神経を鍛えるトレーニングとしてボード上に点灯したランプをどれだけ早くタッチできるかを計測するというものがある。そこまで単純化された動作でも一般人は0.3秒以上。鍛えに鍛えたアスリートでも0.1秒を切ることはまず無理らしい。 これらを総合すると「球筋を見て振った」というのはもはや人間技ではない。つまり本当はボールは見えていないのだ。 スイングをしながら最後の瞬間に何かを調整することはあるかも知れないが(それもそれで神業だが)実際はピッチャーの指先から離れる前にバッターは球種、球速、コースを含めて予測している。例え本人が意識しなくとも。これも長年の練習の積み重ねと数々の投手の癖などを研究した蓄積の結果として得られる直感である。

直感はバカにならない。

また一方、観測結果が全て正しいとは限らない。データにはデータそのものを得る過程においていくつもの難しさが伴うからだ。

ピカールという17世紀の天文学者が当時の懸案事項だった太陽の直径の算出を行ったが、その300年後に彼の成果が振り返られた際に投げかけられたのは当時の計測機器の精度だった。しかし素晴らしいことに、当時ピカールと懇意にしていたオージーという研究者が作りだしたマイクロメーターは非常に優秀な精度を持っていたと証明され事なきを得た。とはいえ当然そこにケチがつけばピカールの偉業そのものが吹き飛んでしまう大ピンチだったのだ。

昔小学校に「百葉箱」があったのを見たことはあるだろうか。(今もあるところにはあるらしい) あの中には温度湿度等の計測機器が入っていて記録を取っている。なぜ小学校にあるかというと、百葉箱による計測がある程度の精度を保つためには周囲に障害物がなくかつ適度に風通しが良い必要があるからで「一定の区間内に大抵ある広い場所」というと容易に想定できるのが小学校の校庭だったからだ。
近年温暖化が叫ばれるが、IPCCによるとここ150年でGlobal Mean Temperature(地表面温度の平均)は1℃上昇しているのだという。 百葉箱は結局精度面で難があり、±1℃以上の誤差が出るらしい。また設置位置が人間の目線程度の高さにあるため、ここ半世紀だけで3℃は上昇していると言われるヒートアイランド現象による補正を含まなければどうしても高い温度で出やすいという問題もある。
結局、現在は衛星からの計測も含めた様々な手法の結果を統合して最終的な気温の値を出している。つまり近年の温度については疑う余地が少なくなってきているのは間違いない。が、それを踏まえてここ15年ほどに限った観測結果を見ると温暖化はあまり進んでいないように見える、というちょっとしたジレンマを抱えている(まぁこれは科学というより政治の問題だ)。

また、データはその見せ方および見方にもきちんとした注意を払う必要がある。
IPCCの第三次報告で有名な「ホッケースティック曲線」は古気候学の研究結果と現代の測定結果を合わせると20世紀後半から唐突に劇的に人類史上類を見ない温暖化が進んでいるように見えるという衝撃的な結果を示していた。しかしここでいう古気候学はいわゆる特定の堆積物や各地の年輪に含まれる炭素などの同位体の分析から過去の温度を推定するもので、衛星から全地表面の温度を網羅的に測定して平均値を出すような近代運用されている計測手法と比べると正確性に劣り、当然ながらある程度の誤差を含んでいる(正確な記録のない過去を推定するというのは、風が吹けば桶屋が儲かるレベルの推定を重ねる必要があり、言うまでもなく大変困難な作業だ)。
データを提示したマイケル・マンは科学者としてフェアに誤差範囲も含んだデータを提示した。しかしグラフ上でその誤差範囲の中心あたりに少々太めの線をすーっと引くだけで、あっという間に恐怖の曲線が出来上がったのだ。
その後マンは各方面から「温暖化の印象を意図的に操作した」と非難されたが、反対に名誉毀損で訴えそして勝訴している。当たり前だ。その後の他の研究結果が示したグラフは確かにホッケースティックではなかったが、しかし「マンが示した誤差範囲の上限および下限には概ね入っていた」のだから。マンの提示した結果は誤解を与えたかも知れないが嘘は言っていなかった。そして誤差範囲についても正当に示されていた。
つまり仮に過剰な扇動が存在したとしたら、それは情報を受け取った側の解釈の責任だという裁定が正式に下ったわけである。
その後IPCCは第五次報告では過去の気温に関しては複数の推定データを重ねて表示するようになり、それによって現代よりも温暖だった中世温暖期の存在が認知されるようになる。また加速的に温暖化が進む前は小規模な寒期が存在したことがわかっている。
また話を巻き戻すと、それら複数の推定データを加味してもここ100~150年レベルで温暖化が進んでいること自体は間違いなかった。しかしそれにも関わらず一度のデータの見せ方および見方の齟齬のせいで発生した深い綻びは未だに根強く、完全に解消されたとは言い難い(アメリカでトランプ大統領が誕生したこととこの話とはあながち無関係ではない)。
なおマンたちの解析手法自体に対する問題点も指摘されているが、これはあくまで科学あるいは数学の領域での議論である。実際IPCCは採用するデータの背景や確実性が不明瞭であったり、引用論文が少数の著者に限定的であることなどが問題点として指摘され、徐々に改善に向かっているところだ。

データの万能性を無制限に信奉するのはあまりに無邪気で危険だと言える。
事実を最もよく表すものはデータ。それは間違いない。 しかし一方で全てのデータは常に「疑うに値するもの」だということも忘れてはいけない。

直感は理屈を伴わず証明や再現性が困難であることが多い。非常に扱いづらい。
しかし一方で様々な直感はこれまでの自身や他者の積み重ねをベースに成り立っているということを忘れてはいけない。

自分が「事実」として認識していたものが間違っていたときはどうすれば良いだろうか。 理性的に考えるのであれば、そんなものはさっさと認めて修正すべきものを修正して先へ進むべきだ。 間違っているとわかったものと付き合い続けることほど無駄なことはない。

しかし自分が「理念」として持っていたものが間違っていたときはどうすれば良いだろう。

先程の天動説を例に取れば、多くの天動説論者はそれ自体を「単なる事実」ではなく「世界の成り立ち」や「真理」や「人間とは、我々とは何なのか」という哲学的問いに対する回答と結びつけて捉えていた。 それが覆された時の絶望感は計り知れない。

理念とデータを結びつけるべきではない。 何故ならデータのせいで理念を損ない理念のためにデータを損なうリスクを孕んでいるからだ。

ピカールの偉業は経度の正確な測定を可能にし、惑星間の距離の測定を可能にすることで太陽系の運行を解明するための礎となり、ニュートンも万有引力の法則を導くためにピカールの測定データを参照したと言われる。 しかしオージーが作成したマイクロメーターの精度次第では、それらは全て台無しだった。

一方で当然ながら直感と事実は結びつけるべきではない。 こちらに付言することは特にない。

これらのギャップが発生するときはどのような時だろう。 それは「確定した事実」に対する認識が相互、あるいは社会と個人でズレている時ではないかと考えられる。
「確定した事実」を簡単な別の言葉で言うなら「当たり前のはずのこと」のことだ。
例えば「金持ちは貧乏人より幸せである」という偏見(私は偏見だと思う)を「当たり前のはずのこと」として仮に提示されたとする。 あるいはそのような空気が社会に蔓延していたとする。 ある人はデータを提示する。「所得の下位10%と上位10%の人生に対する満足度を数値化したら明確に上位10%の方が満足度が高かった」と。これは完璧な事実を述べたデータである。 しかしこのデータの問題はすぐに気づくように「極端な金持ちと極端な貧乏人のデータしかここにはない」ということである。 つまり「所得と幸福度に正の相関がある」ということは証明していない。ある意味命題通りのデータでしかない。 したがって上記の命題は多くの人にとってほぼ何も語っていないも同然なのだ。

しかし事実ではある。

その重みが故に理念に何かしらの影響を与えてしまうとしたらそれは間違いなく不幸な話だ。 事実は事実。理念とは関係がない。

試しに別の事実を持ってこよう。 有名な行動経済学の実験によると、年収がある程度以上になると幸福度は年収との相関を失うらしい。金銭的インセンティブの限界というやつだ。しかもこの「ある程度」の境目は決して年収数億円とかの話ではなく、当時の実験では年収12万ドル。アメリカ(西海岸)と日本の当時の所得格差を考慮に入れたら700~800万円というところだろうか(今はもっと格差が広がっているけど)。一般的なサラリーマンの平均年収が450万程度、上場企業平均で600万円というと700~800万円は確かに高い。しかし平均というのは入社したての新人も含めた平均であることや50代の大卒サラリーマンと限定した平均が600万円を超えることなどを考慮に入れると、そこまで雲の上の人の年収ではないと言えるだろう。したがってこの停滞あるいは後退はある程度一般化できる話である。 「年収1000万円前後で鬼のように働かされる人生が一番きつい」と俗に言われるのはこのためである。税制も巧みなもので年収1000万円前後と700万円程度で税金や手当を全て考慮に入れると手取りはあまり変わらないということがある。 「年収が高い」というプレッシャーと社会的責任感で抑圧される分の金銭的ベネフィットがほとんどない、ということがあり得るということだ。したがってこのレンジでは所得と幸福度がむしろ負の相関を持っているという仮説すら成立する。

これもまた事実。

このような事実、また事実、別の事実。そうやって数々の事実を積み上げたところで果たして理念に届くのだろうか? むしろ薄汚れたセロファンを重ねたかのように実体はどんどんボヤけて行くように思える。

なお理念とは例えばこのような問いへの答えだろう。
「果たして我々は所得を上げることによって幸せになれるのか?」 「新市場主義に基づく経済成長で我々は幸せになれているのか?」

これであれば人間的な直感の方がむしろ役に立つとも思える。 既にこの世にはいない身近な人のことを思い返してみることも役に立つかも知れない。 祖父の人生は果たしてどうだっただろうか。恩師の人生はどうだっただろうか。

また平均値は全体の平均でしかなく、必ずしも自分がそこに当てはまるとは限らない。むしろ外れる人の方が多い。 統計も全体の傾向を示しているだけで自分が少数派になる可能性は当然ある。十分すぎるほど。 統計データは「全体的」な何かを教えてくれるだけで「自分」に関する何かを教えてはくれない。 「自分」のデータが統計的にどこに属するかを見ることはできるが、それは自分が目指すところ、達成したいこと、生き方、死に方、それらを決めるのには全く役に立たない。

「迷ったときは心に従え」とは存外的を得た知恵なのだ。