202X年、スマートフォンは僕らが期待していたデバイスにはならなかった

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200x年、私たちは『スマートフォン』の潮流に直面し喜びに満ち溢れた。
「ようやく我々が求めていたデバイスが生まれた!」と。

コンピューティングパワーと操作性を兼ねそろえたモバイル端末という形態への需要は過去から常に予測されていた。
実際にガラケーの狙う先も常にそこにあったし、古くはPalmなどにもその源流が見て取れる。
WindowsCEも当然そこを狙ったもので多くのメーカーがWindowsCE搭載のクールな製品をリリースした。

しかしいずれも十分に市場を席巻するには至らず、誰もがモバイルコンピューティングデバイスと言えば
「一部のガジェット好きが買うものもすぐに飽きられてしまう一過性の製品群」
と捉えるようになっていった。

なかば諦めだ。

そんななか「そうか我々が求めていた最終形はこれだったんだ!」と皆信じて疑わないだけの確かな存在感を示す製品が世に出てきた。
それがiPhoneの衝撃だった。

現在、これほどまでに「世界中で誰もが似たようなものを持つ時代」は稀だろう。
いまやApple以外のメーカーも特許侵害に当たらないギリギリのところでiPhoneとほぼ同じものを作り続けている。
もはやスマホはジーンズのようなものである。
パッと見ではそれぞれに特徴などない。一部のこだわりを発揮する層を除いて、ユーザーも別にそれを求めていない。
何故ならコンテンツが重要であってデバイス自体はどうでも良いからだ。
あと10年もすればほとんどの若者が全ての始まりはiPhoneだったことを知らないようになってしまうだろう。恐らく現時点でも発展途上国などでApple製品はほとんどなく、安価な中国製スマホが市場を寡占しているような国では既にそうなっているかも知れない。
つまるところ、ルーツやそこに込められた哲学などどうでも良いことだからだ。

このような劇的な一般化の過程の中でスマホに求められるものも随分と変わってきた。

当初モバイルデバイスに求められていたものはクリエイティブの場所としての小型端末だったように思う。
外出中でも、ドキュメントの編集、プログラミング、アプリ開発などの一部が行えるようにするという意味だ。(インターネットを外出中に使うことがそう安価ではなかった時代は特にそうだった)
しかしそのアイディアはやはり経済的合理性に欠けた。
モバイルデバイスは様々な技術的困難を抱えている。あれだけ小さなデバイスの中にバッテリーと液晶を入れるだけで一苦労だ。加えて電磁両立性などを確保することにも小型デバイスはすこぶる不利である。
つまりはコストがかかる。
「クリエイティブ」程度のニーズのために作っていては全くもって割りが合わないのだ。

そこでiPhoneはもっと一般的な情報端末へと舵を切った。
対象ユーザー数を圧倒的に増やし、市場を寡占し、プラットフォームとしての旨みを吸い尽くすビジネスモデルへと発展させたのだ。
とはいえ当然初期には外付けデバイスでの拡張性がだいぶ担保されていた。しかし、現在では外付けキーボードすら使っている人はだいぶ稀でないだろうか。
そして今のスマホは「情報の受信機及び表示器」としての機能が何よりも重要な主たる唯一無二の用途だと言って差し支えない。

ここでふと思い当たる点がある。

たかが情報端末にここまでのプロセッシングパワーは必要なのだろうか?

むしろスマホ用のSoCの開発は加速するばかりだがそれは何故なのか。
高画質な写真の処理、リアルタイムの画像認識、大容量動画の視聴、などなど。理由はいくらでもある。
要するにコンテンツの多様化とスマホ自体の用途の多様化に対応してのことだ。

なおスマホの用途の多様化については正確には用途の取り込みであり、従来専用機で行っていたようなアクティビティが順次、豊富なプロセッシングパワーを持った手元の「都合の良いデバイス」へと置き換わっている現象であり、実は冷静に考えるとその因果、ニワトリタマゴは定かではない。

コンテンツについてはいわゆるユーザーとメーカーの想定するスペックに関する典型的なギャップに差し掛かっているように私には思える。
というのも、例えば1080p以上の動画をたかが5inch程度のディスプレイで観たいというモチベーションは果たして本質的なのだろうか?
ほとんどのコンテンツがスマートフォンとせいぜいタブレットで消費されるようになった時代に8kでコンテンツを撮る必然性はどこにあるのだろうか?
VRの文脈はこれで歴史上何度目かの登場になるが、3Dテレビの大失敗から我々は何を学んだのだろうか。

「ユーザーが求めている以上のものを提供する」ということはメーカーが常に理想として掲げる虚像である。
あえて「虚像」と表現したのは、ほとんどの場合でその行為は「ユーザーの潜在的な欲求」など全く突いていない、単なる価値観の押し売りだからである。

では何故このような押し売りが継続できるか。経済原理から考えたらおかしい。
しかし何も間違っていない。それは端的に儲っているからである。表層に見える押し売りの部分ではなく、裏で。

電子機器の開発に携わる人間として、仮に「iPhoneやAndroidのフラッグシップ同等のスマートフォンをゼロから開発する」というテーマを受けたとしたら、市場販売価格10万円で出すのは極めて難しいと答える。
開発費の回収についてもそうだし、個々の部品単価について細かく検討しても恐らく結論は変わらない。
しかし多くのスマートフォンは10万円の近辺どころかもっと安い価格で販売されている。

何故か。それはデータだ。

今更私があれこれ言うまでもなく、多くの端末やアプリでは使用データが収集されている。
近年のリスティング広告の厚かましさには恐怖すら覚える。
ここで「厚かましさ」と書いたのは、あまりにも露骨過ぎるターゲティング広告はつたない詐欺師との出会いにも似た、陰鬱と憐れみが入り混じった侘しい気持ちにさせられるからだ。

顔認識の精度の向上は、我々が多くのアプリやプラットフォームで恋人や子供の写真の一覧を作るために顔情報を入力し続けた成果である。これ自体は、ある程度の合意の上で共通のベネフィットのためにユーザー側が労力を提供し、それに対してメーカー側が便益をサービスの形で提供しているわけだ。悪くない。

音楽サービスで自分が作ったプレイリストを元に趣向の分析をしてアーティストをレコメンドしてくるのも、ある意味ウェルカムだ。というのはそもそも音楽サービスをそのような目的で利用しているからだ。

しかし、私が観ているテレビ番組や、訪れたカフェ、宗教や交友関係、性的嗜好、どのゲームで1日どのくらい遊んでいるか。それらの情報は我々が「何かしらのサービス向上を期待してメーカーに渡した情報ではない」と考えられる。
しかしそれらの情報は至って頻繁に広範囲において利用されている。

メーカーにしてみれば理屈はこうだろう。
「我々はスマートフォンおよびそれらのサービスのプラットフォームを構築するために莫大な開発費を投じている。その一部がデータの収集によってサービスを改善する(広告主様に高機能な広告機能を提供する)ことに役立てられていることは、むしろこちらにとっては正当な利益の回収である」
そしてより決定的に言うならば「文句があるなら使わなければいい」だろう。

私は実際しばらく前からFacebookに広告が多くうんざりするようになっていたが現在はほとんど使っていない。
自分なりに露骨過ぎる広告にNOを突きつけるためだ。
メンションだけが適切に出るようにしておいてそれだけを見る。つまり自分が見たいものだけ見るようにしている。

Googleは古くからIncognitoモードを用意していた。これを使うと検索の履歴やCookieがブラウザに残らないのだ。
プライバシーについてGoogleが一定の考え方を提示しているということをうかがわせる。
しかしこれは「訪れたWebサイトがあなたのデータを抜くか抜かないか」とは残念ながら無関係だという。
本来であればDuckDuckGoなどの行動データへのアクセスブロックを前提としたシステムを喧伝する方がフェアである。

やれやれうんざりだ。
しかしスマートフォンを使うことをやめる判断はとうとう難しい状況に突入している。

我々はすでに多くの連絡手段をスマホに依存している。
LINE, Facebook Messenger, Twitter, Slack, Teams, 挙げ出したらキリがない。

しかし考えてみよう。
LINEでできることなどSMSでほとんどできていた。
とはいえ我々はLINEを使う。これがプラットフォームビジネスの怖いところだ。人の心理を上手くついてくる。
これに対して「メッセージングアプリの性能はSMSとは比べものにならないくらい向上している」という反論は然るべきだろう。
応答性能であったり既読未読のチェックであったりスタンプ機能であったり。
しかしこれは既に先ほど述べたような「ギャップ」に踏み込んでいる。
実家の母親とのLINEのやりとりに応答スピードが1秒か10秒かなど大した問題ではない。どうせ読んでもすぐには返信しないのだから。
スタンプは遊びとしては面白かったが結局のところほとんどの人が既に飽きていて毎度いくつか同じスタンプの使い回しをしているに過ぎない。
既読未読の通知はむしろトラブルの元なのでわからない方がみな幸せだった。
これらに対する反論もまたあって然るべきと思う。しかしそもそもこれらについて議論が成立するほど不安定なギャップ領域に侵食しているということは間違いなく確かなのだ。

Facebookができる以前は皆メーリングリストなどで友人たちと近況を共有しあっていた。
当時のやり方はインタラクティブ性が落ちることは間違いなく(「いいね」などができない)また特定の相互にオーソライズされたメンバーたちで構成されるグループ内でのみのコミュニケーションが前提であり、もし無差別的に大多数とコミュニケーションを取りたければその際の手法は掲示板など、今度は逆に公共性が高過ぎるものしか存在しなかった。
これは非常にアンバランスな状況であって、それを埋めたFacebookの功績は評価に値する。

しかし我々はそのような軽いコミュニケーションツールを必ずしも求めていたのだろうか。
例えばメールを送るとなると文面をなんども見直す。一度送ったものは修正が不可能だからだ。
しかしSNSではそんなことはしない。投稿した後でもほとんどの場合で修正や削除が可能だからだ。
軽く発言して何か失敗したらすぐに消す。
これは社会では容易に認められる行為ではない。そのため社内SNSで「削除禁止」というルールを持っている会社は少なくない。

掲示板のような即興性と野蛮さと、メールの静的な安定感。
それらの対極を利用して我々はコミュニケーションを取っていた時代、それが完璧だったとは誰も思っていない。
しかし今は一時の掲示板ほどではないが静かな野蛮さを兼ねそろえたSNSというプラットフォームにしか、ほぼ有効なコミュニケーション手段が存在しない。きちんと考えを整理してコンテンツとしての品質を十分にした上で友人に何かを送ることなど極めて稀だ。

試しに環境問題に対する議論をとある官僚の友人とメールでやってみたが、メールの往復には大抵2, 3日、長いと1週間かかる。
しっかり考え、間違いのないようにきちんと調査して、それから提案なり反論なりを返す必要があるからだ。
これはとても整然とした実りあるコミュニケーションのスタイルに思えて仕方がない。
SNS上での政治問題や社会問題に関する議論がクラウド上のゴミばかりを生み出しているようにしか思えないのは、つまりはこういうことだ。

いくつかの問題を並行して取り扱うようになってしまったが(そのくらいスマホとSNSがここ10数年で作り出した産業構造の改悪は大きく複雑だが)要するに提起したいのは
・コミュニケーションの多様性が打ち捨てられスマートフォンに全てが最適化されていること
・SNSがその「ユーザー側の必要」から乖離して多くのデータを収集していること
・スマートフォンはSNSの傀儡に望んで堕ちたこと
が結果的に現状の多くの不安定や不均衡の引き金になっているという推察である。

「相手の声が聞きたくて電話する」なんていうカップルの情景を思い浮かべれば非常に温かい気持ちになるものである。
人間の本性に即しているとすら感じる。
「LINEの既読スルーにイラっとする」とか「Instagramに投稿した写真に誰々だけがいいねしない」だとか。
そんなものは人間が自ら作り出したシステムのせいで勝手に自らにストレスを付与しているだけの愚行に思えて仕方がない。

とはいえ牧歌的に「昔は良かった」などと言っていても何も解決はしない。
現状に不満があるのであれば解決策を講じるのが正しいスタンスだと言える。

そこで考えてみたい。

例えば「情報の輸出に関税をかける発想」だ。
数年前に欧州はGDPRを開始したが、これは先駆けと言って良いだろう。
具体的には個人データの欧州外への持ち出しを実質的に制限したわけだ。
ほとんどのメーカーにとっては顧客データを置くサーバーの場所などについて気を使うだけで済む話だったが、データ産業の中心にいるような企業にとってこれは大きな死活問題である。
しかし自国の国民が生み出しているデータが、他国の企業の利益に直接的に結びついていることについて、誰も好意的に受け止めることはできないというのは非常にもっともであり自明でもある。一旦は規制だが、これが今後どう発展していくのか注目だ。

例えば江戸時代以前にはマグロのトロは捨てられていたという。
輸送手段が発展していなかった当時はマグロは漬けにしてしまうのが一般的で、脂肪分の多いトロを漬けにすると出来が悪く美味しくなかったらしい。
価値が認められなければそれはタダ同然。しかし価値が認められれば価格が付き取引がされる。
そしてもしそれを国家間で移動させるのであれば関税が検討されるというのが筋であろう。

さて、では情報の価値が低減、あるいは情報収集のためのコストが割高になった社会を想像してみよう。

広告のクオリティが下がるかコストが劇的に上がり、それが広告とは距離のある様々な実体取引に影響を及ぼすだろう。
スマートフォンは一台10数万円のモノとなり、子供ひとりひとりに気軽に買い与えるようなものではなくなる。
ターゲティング広告のパフォーマンスが下がり、収益構造として悪化。そのためアプリを無料で提供することが難しくなる。開発者たちはIn-App Purchaiseでの収益化をメインで検討するようになり、一時期の「フリーミアム → サブスクモデル」が台頭してきた頃と同じような感じに落ち着くだろう。
その一方で各メーカーのスマートフォン開発への過剰投資に歯止めがかかり、価格も徐々に押し下げられるだろう。その一巡が起こるまでの期間では中華スマホが市場を席巻するようになるかも知れない。
大型の寡占的なSNSが低迷し、限定的なメンバーでそれぞれの好みのスタイルに合ったコミュニケーションを取ることができる新たなSNSが複数台頭する。そしてそれらの多くは会員制であり有料である。そしてそのようなコミュニケーションツールを自由に構築するためのセキュアなプラットフォームを提供する企業が新たな勝ち組となる。

市場規模で言うと縮退。経済で言えば後退のように映るかもしれない。

しかしそもそも市場の拡大、経済の進展が素晴らしいと誰が決めたのだろうか?
間違った方向に進むのであれば、縮退や後退を受け入れてでも一度止まった方が良い。
それは環境問題が発覚したため工場の稼働を止めたり、安全基準を見直すために建設計画を止めるのとなんら変わらない。

いま市場は強烈な一般化と情報搾取の連鎖の中で「一度止まるべき状況」にあるように私には見える。
大量の情報と引き換えに大量の電子ゴミを作り出す。
そのような状況に、ものづくりに関わる人間として強い嫌悪感を抱かざるを得ない。

これは必ずしも諦めではない。
そしてまた必ずしも新たな大発見や技術革新をただちに要求するようなものでもない。
例えば少ないユーザーに大きな満足を提供するというビジネスモデルはもはや打ち捨てられてしまったかのように希少である。
しかし、本質的には「ユーザー数 × 満足度 = 価値」という単純な数式で捉えることが許されれば、まだまだ価値観の挽回のチャンスはあるのだ。

娘を行かせようかと妻のタブレットで検索したダンススクールの広告が私のFacebookに表示される。
自宅でテレビを見ながら「あー、このアーティスト結婚するんだね」などと話したアーティストのPVがYoutubeのレコメンドで出てくる(今度は検索すらしていない。でも名前を何度も連呼したし、その場で曲も流れていた)

このような気持ち悪さに直面して、私は様々なものを止め始めた。

便利であると同時に気味が悪いデバイス。
これが「僕ら」が求めていた最終形だと私は思いたくない。

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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