空気の研究

投稿者: | 5月 15, 2022

マスクと空気(通気性の話ではない)

先日とある人物との会話の中で

「ここら辺の外(道幅は広く、駅からはだいぶ遠いので人は疎ら)を歩く時に何でみんなマスクしてるんですかね?」
「え?そんなの忖度に決まってるでしょ。もしたまたま誰かにノーマスクを目撃された時に何か悪い印象を持たれるリスクに備えてるだけ」
「今更そんなことでネガティブな反応する人いるんですかね?」
「うーん、それは世の中の空気次第でしょ」

というようなやりとりがあった。

日本では恐らく昨今そこら中でそんなやりとりが行われてるのではないだろうか。
そんな中で先日東京医師会会長がマスク緩和の提案を出した。

同じ人物にこの話をすると

「あー、勇気ある発言だね。それで世の中の空気が変わってくれると嬉しいけど」

という反応。

『空気』ってなんだ?と。

私も日本人なので重々知ってはいるが、日本では多くの場で空気が物事を支配している。逆にアメリカで働いていた時は多くのメンバーが「空気を読まない発言を平気でする」と感じたものだった。

でも改めて空気って何だろう。

実はこれを40年以上前に研究していた人物がいた。冒頭の「空気の研究」という書籍だ。
ここではその要約を紹介したい。

空気は対象を臨在感的に把握することで発生する

「臨在感的把握」とは噛み砕いて言うと「無いものを在るように感じてそれを絶対化する」ということだ。「物質に物質以上の価値を与えること」とも言える。
具体的にわかりやすい事例は「偶像崇拝」、もっと軽い領域では「縁起物」などだ。

逆に「物はあくまで物であってその機能を果たすためだけに存在する」という実在論的な理解が空気を崩壊させる。

空気のシンプルな例として、イスラエルでユダヤ人と日本人の発掘チームが大量の人骨を発見した際の出来事がある。
遺骨の処理の過程で日本人のみが体調を崩すという事件が起こった。
大量の人骨というものは恐らく戦争、あるいは虐殺、あるいは疫病の蔓延など何かしらの悲劇を強く想起させる。したがって日本人スタッフにとってはそこで『お祓い』をする必要があったのだ。
これは非物質的な臨在を日本人だけが共通して感じた、ということになる。他者から見たらよくわからない「空気」が確かに彼らには存在したのだ。

明治時代の啓蒙教育は非科学的なものを断罪し続けた。しかし超能力ブームにも見られるように否定されたものほど根強く残るものである。

このような臨在感的把握には必ず「一方的な感情移入」や「依存」が存在する。そしてそれは「論理」や「技術的把握」を容易く蹴散らして強く居座るものである。

物質の絶対化の危険性

物質のことを悪者にするには簡単である。相手は弁明して来ないのだから。

絶対化とは「善悪をハッキリ断定すること」と定義できる。

逆に相対化は「それぞれがどの程度優れている部分があり、どの程度劣っている部分があるかを比較すること」であり、特に何かを断定することはない。

絶対化は思考停止を招くが、人間にとって思考停止はとても楽だ。なので至る所で多用される。

一方で西洋社会では絶対化が起きにくい。
「絶対化=神格化」であると捉えることが可能だが、彼らにとって神は唯一のもので、そこら辺で誰かが安易に発生させたり時代の流れで変わったりするものではないからだ。

新井白石がキリシタンを強制送還した際にある懸念を示している。
彼らは「個人が神と直接繋がりそこで反省をしたりアドバイスを得たりする」という考えを持っていて、それは「空気」が支配する日本の文化体系を破壊しかねないと考えた。

また昭和天皇は敗戦にあたって「私は現人神ではない」と宣言したが、実は「私は現人神である」と言ったことはない。これも相手がコメントしてこないことをいいように利用した空気的支配だったわけだ。

太平洋戦争と空気的支配

戦艦大和が負けるとわかって出陣したことに対する戦後の弁明に 「異論を言える空気ではなかった」というコメントが記録に残っている。

「水を差す」という言葉がある。ほとんどの場合でネガティブな意味合いで使われるが、これの本来の意味は醸成されつつある間違った空気に対抗して「きちんと現実を言う」ということ。

太平洋戦争の前に財源はなく、石油確保も絶たれていた。
「そんな状況どうやって勝つわけ?」
と言いたい聡明な人はきっと山ほどいたはずだが、それは「言える空気ではなかった」のだ。

太平洋戦争末期 「誰が降伏だと言い出すか」というチキンレース状態に陥っていた。
現にある陸軍将校が無条件降伏が決まるや否や、自分の土地と小作人が無事か確認したという記録が残っている。要するに誰もがモンスターのぬいぐるみを被っていただけであって、戦争なんかよりもよっぽど自分の財産や身内のことの方がよっぽど心配だという当たり前の気持ちを「空気」に従って隠蔽していただけなのだ。

旧日本軍では自由主義者を「箸にも棒にもかからない使えない人間だ」とみなしてきた。
見たものを見たと言い、聞いたことを聞いたと言う率直な人間は、「父が隠し、子が隠し」の相互隠蔽的な組織規範には馴染まないと考えていたからだ。

絶対化とメディア戦略

西南戦争は日本の歴史上初めてメディア戦略が使われた戦争だと言われる。
官軍は薩摩の人間を『非常識な野蛮人で死体を切り裂いて遊ぶらしい』と新聞を使って吹聴した。

絶対化は永続性が弱く比較的短期決戦の繰り返しになりやすい。したがってリバウンドが起こったり、あっさりと飽きられてブームが過ぎたりする。これも空気の特徴的な作用だ。

日本は文化的に流行り廃りが激しい(と70年代の人も思っていた)のは、この「絶対化」を複数同時かつ安易に多用するからだ。

何か古い慣習を捨てて、新たな偶像を臨在感的に捉え直すと、自己が変質したという錯覚が得られる。
古い流行りを捨てて、新しい流行りを掴むと、まるで自分が流行の最先端を切り開いている開拓者のような勘違いをして気持ち良くなることができる。

これが戦後復興において有効であったのは否定できない。しかし長続きはしない。

まとめ:フェアに議論するということ

個人的に、アメリカで重要だと感じ、日本ではとても難しいなと感じていることの筆頭が「フェアに議論すること」である。

「賛成・反対」の如何をもってして相手を「善」か「悪」かを断ずることなく、フラットに会話するという至極当たり前のこと(私にとっては)ができていないシーンを多く見かける。

それは「感情を殺せ」とか「科学的根拠のあることだけを言え」というような非現実的な話ではなく、感情までを含めたフラットな会話をすれば良いのに何故それができないのか?という葛藤でもある。

「不安だと感じる」「不快だと感じる」「いい加減イライラする」

それらも大事なファクターだ。テーブルの上に並べて議論すれば良い。
例えばアンケートなどで数値化することで、それらのぼんやりとした感情面も科学的根拠と横に並べて理論的に議論することが可能になるかも知れない。

しかし仮に既に何かしらの「空気」が存在する場合、それらをきちんと隠蔽せずにつまびらかに紐解くことができなければ、空気が勝つ。空気は大抵のものには間違いなく勝つ。

例えば冒頭の「見通しが良く、道幅が広く、20~30分歩いても数人としかすれ違わない道で、果たしてマスクを着用していないと感染の不安を感じるか?」というアンケートを取ってみれば良い。

すでに上記について科学的な結論はとっくの昔に出ている。リスクは極めて低い(むしろ他のネガティブファクターの方が不確定性も含めて懸念される)
しかしそのような科学的根拠だけでは空気に勝つ見込みはほぼない。
感情面も並べた時に、ようやく「空気」が壊れる可能性があるように思える。

あるいは「日本らしい文化体系」に従えば、「新たな偶像を据えること」がより現実的な解決策なのかも知れないが(ワクチンはそれになれなかった)。

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