とある起業家と研究者:わかってる人の話を聞くのは気持ち良い、わかってない人の話を聞くのはツラい
先日なんとなしにテレビを観ていたら、とある起業家の話と、とある研究者の話が連続して(2つの番組で)放送されていた。 私はその1時間弱の間、一方で納得に満たされ、一方で憤慨とも拒絶とも違うある種のむず痒さを感じ「こりゃツラいなぁ」と思った。
片方は雲の研究者の話だった。
私は専門外ながら、自分で言うのはなんだが気候のメカニズムや環境技術についてはそれなりに詳しい。興味で専門書を読み漁り、最新のニュースに気を配っている。アメリカにいた頃に気候に関連した事業を立ち上げたことがあり、興味自体はその後も自分の中でずっと続いているのだ(EnviroTechとか非常に好きなサイト https://www.envirotech-online.com/ )
その研究者の方が言うことはとてもフェアで、これはできること、これはわかっていること、これはわかっていないことで、これが課題、というのが明白に語られていた。
例えば番組内で線状降水帯の元となる積乱雲を見つけて、その他様々なリアルタイムデータと統合して、これから局地的な雷雨が何時にどこで起きるかを予測する。その場では(オンエア分では)それをかなり的確に当てることができていた。演出としては満点だ。 しかし結局のところその研究者の方のコメントをかいつまめば「かなりわかりやすい事例」を「かなりの人力」と「経験則」を用いて当てたというのが現実であって、これをそのまま一般運用へ移すことは完全に理に適っていない。もっと効率が良く正確なモデルを作り出さなければならない、と〆ていた。
そもそも雲の生成と発達のメカニズムはまだまだ十分に解明されたとは言いづらい分野で、多くの気候モデルにおけるメッシュの大きさよりも本来もっと細かく表現されるべきだと一般には考えられている。つまりほとんどの気候モデルでは雲のメカニズムに関してはメッシュの大きさに合わせてかなり抽象化された「そこそこ正確であまり精密ではない数式」を用いて代替されている。これは専門家以外はあまり明確に言うことがないが正直困った事情なのである。
こういうことをきちんと言う人はとてもフェアだと思うし、聞いていて気持ちが良い。 「おれの研究分野すげぇぜ」「万能だぜ」というマウンティングをやらない人の言うことは多くの場合で信じるに値する。
さて一方は空飛ぶ車の開発会社だった。
すでに文脈からわかってしまったが、私はこちらの話を聞きながらなんともツラい気持ちになったのだ。
内容に関する議論がしたいわけではないので詳述は避けるが(当事者からのご相談は大歓迎)まず起業家にありがちな目標の見立てがあまりに楽観的過ぎること。それも創業前や創業直後ならまだしも既に創業から3年経っている。3年目の現在地、その途中(ちょっと状況を含めた話を聞いていた)それらを踏まえた3年後のビジョンがいかにも曖昧で「大きなことを言うのはいいけどマイルストーンの算段は?」と誰か周囲が突っ込まないのだろうかとムズムズする。 また技術系キャリアの創業者ではないようで、技術的な(特に精度)の質問に対して10年前の日経新聞から取ってきたような受け答えをしていた。これは流石にテレビに向かってツッコミを入れた(老化だな) 実は以前に諸事情があってその会社のメンバーの経歴を調べたことがある。経験が薄そうな若者が多かったが、きちんとした経歴のエンジニアも入っていた。その人が経営幹部かどうかは知らないが、助言くらいできる立場にいるはずだ。
明らかにこの会社は創業者が詳細をよく理解しないまま暴走していて、周囲が止めることも助言することもできない状況になっている、と私は確信した。
ビジョンを語る人間は『きちんとした夢』を持ってこなければならない。
実現不可能な目標を何の算段もなくさも確定した未来のように語る人間は詐欺師だ。
巨額の資金を集めている会社がそれでは困ってしまう。 別に私は困らないのだけど。
ということで憤慨するほど当事者でもないし、単に拒絶するだけでは勿体ない派手なショーが始まりそうだし、でも当事者たちのことを思うとむず痒くて仕方がない、そんな気持ちになったのだ。
歳を経て多くのことを学ぶと物事の真贋の感度がえらく高くなってしまう。 これは一般には弊害の方が大きい。
つまり「自分が理解できる範囲のことだけを見聞きして他を切り捨てる」という行為に極めて繋がりやすいからだ。
いわゆる老害である。
本来世の中は不確定なことだらけだ。
ニュートン力学が支配していた18世紀に、その「万能の理論」で説明できない世界の存在を信じている人はどれだけいただろうか。かの有名なボルツマンは学会に全く理解されず首吊り自殺をしている。
足し算と掛け算は完全に一対一で対応している写像だとして習っているしそれが当たり前だと我々は考えているが、しかしそこを一度崩して考え直すことでABC予想を証明しようとする試みが近年注目されるIUT理論だ。それが本当に合っているのかは正直直感的にはさっぱりわからないし、その判定が確定するのはまだまだ先の話だと個人的には想像している。しかしもし正しいとなれば人類の一般的な認識は大きくひっくり返ることになる。
そんなゲーム盤ごとひっくり返す「種」は世の中にいくつも存在する。
だからと言って、全てが不確定だと考えるのはあまりに幼稚な発想だ。 むしろこれまでの人類の積み上げを足蹴にするような行為だ(まぁそもそもその意図があるのなら別にやっても良いのだけれど)。
特に工学の領域は基礎研究とは異なり、できることとできないことがより明白だ。 それが故に現状から辿り着く結論もより想定しやすい。 当然そこに大衆心理や社会情勢の変容などが含まれるような「コンテンツもの」であれば、不確定性の幅は増すだろう。しかしあくまでエンジニアリングのレベルでは、AIはいきなり人の心は持たないし、マイクロマシンが体内に入って病気を外科的手法で治すのもまだちょっと先の話だ。
近年フェアに語ることの重要性は増している。
そのひとつのきっかけとしてCOVID-19は働いたのではないかと思う。 多くのソーシャルメディアはCOVID-19を通してその価値を落としている。真贋入り混じった情報の渦は、人々を混乱させるだけでフェアな思考からはむしろ遠ざけるということが明白になってしまったからだ。
感染のスピードがいくら早くても今日の1人から明日1000人感染することは特殊なケースを除いてほぼない。したがって検証にも発信にも十分な時間はあったはずだ。 しかし未だに多くのフェアな情報が有象無象の「自称〇〇」たちの発言(時に妄言)の中に埋もれている。
この状況を受けて「中央集権的な情報を信用するシステムが素晴らしい」とは言わない。 何故ならその「中央」には多くの利権が存在し、それらがために情報を補正する必要があるからだ。
では何が信用できるのか?というと「常にフェアな発信を繰り返す人」ではないかと思う。
SNSで一過性の発言をし、もし炎上したらそれをあっさり消したり翻したりするような人は論外だ。
あるいは何かしら反論や議論の余地があると自覚しながらそれを明示しないまま情報をあたかも断定的に提示し、自らの情勢が悪いと見るやそれをそのまま置き去りにするような人も信用することは難しい。
特に自らが立てた仮説や予測を、その結果が出た後も明示的にレビューすることなく、厚顔無恥に次の仮説や予測を堂々と掲げるような輩は、世の中に著しい混乱とミスリードをもたらす人間であり科学者失格だとすら私は感じる。
権威はその人の肩書を見ればわかる。しかしフェアかどうかはパッと見てもわからない。
重要なことは瞬発力よりも持続力で、きちんと丁寧に日々を、一個一個の課題をフェアに見つめ、フェアに批評し続けること、そしてそういう人になる努力を別に論説家だけでなく、何かしらの発信を行う人間(もはや現代では全地球人と言っても良いかも)は皆それを意識すべきではないかと思う。
起業家が派手な妄想を語ってプレゼン資料だけで大量の資金調達をするような世界はあくまで社会全体の端っこでたまに発生するエンタメである。そんなことはもう何十年も前からわかってるはずなのにね。
ちなみに私がSNSでの発言は抑制し、ブログのようなまとまった文章を重視するのは、普遍的な価値のあるものを書き示したいという思想を持っているが故であるが、その一方で、自らがフェアであったか、これからもそうあれるかどうかをいつでも振り返って確認できるようにするためでもある。
Similar Articles – clay tech > category > 思索
clay tech >