理不尽とプロフェッショナリズム 〜 BtoBとBtoC 〜

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# これは過去の投稿=backNumberです

最近『狼と香辛料』を読んで商人も楽しそうなもんだなと思った。
(安直w)
狼と香辛料は中世のヨーロッパをもじった世界を舞台に行商人と人狼の旅を描いた物語で、ずいぶんと渋い題名だがそれなりに人気でマンガやアニメなどにもなっている。
商人は情報と知識が命、しかし時折度胸と機転が求められる。
想像するには楽しく、行うは難し、というやつなんだろうがとりあえず見る分にはやはりエキサイティングで断片的にとりあげられるテーマにも作者の色々な造詣の深さには唸らされることがある。
異端信仰の話や、悪魔憑き、測量の技術、詐欺、関税の仕組み、軍ではなく教会や商会が勢力を持っている様子、など様々なことが現代の我々には関係がないようでいくつか教えられるものをはらんでいる。
まぁそういう意味でも非常に面白い作品だ。
さて、主題に触れると、主人公の職業『行商人』というのは
典型的なBtoBである。
店を構えて最終顧客にモノを売るならばBtoCだが行商人が商売する相手はほとんどどこかの商会か小口の小売業者たちだ。
(少なくとも物語に出てくる範囲では)
これは当然「そういうルール」とか「最終顧客に売る際は税金と登録料が」とか色々事情はあるのだろうけど、基本的には効率の問題だと思われる。
行商人はある意味で運送屋も兼ねているもので、
「ある土地では価値の低いものを安く買って、別の土地で高く売る」
というのが基本的な商売のスタイルだ。
つまり大量仕入れ・大量売却をしなければ十分に儲けが取れないため最終顧客ひとりひとりに対して売っていくのは効率が悪く悠長にそんなことをする時間があったらどんどん移動して売買回数を増やしてそっちで稼ぎを増やすべきなのだ。
行商人の日々は確かに『順当ではない物語』を描くにはネタに事を欠かない優良なモチーフだ。なかでも「相手の心を読むことが商売では重要」と印象に残っているシーンがある。
主人公たちがとある事情があり金の密輸を試みるシーン。他の街で安く仕入れた金をターゲットの街に持ち込む際の関税が法外だからだ。
逆に言うとそれは街に持ち込みさえすれば『かなり高く売れる』ということである。
問題は街の境界にある関門を無事くぐれるかどうかなのだが、それは羊の腹の中に入れて教会お墨付きの羊飼いの少女が羊を連れて通り抜ける、という作戦にした。
主人公は負債を抱えて首が回らなくなっている商会を作戦に抱き込み金購入の資金を出させる。
自分は発案と少女の紹介で分け前をもらうという形だ。
街が見えてきた近くの森で主人公たちは狼の集団に襲われ、少女と羊を商会の人間を少女の護衛につけて先にいかせることにした。狼を無事やり過ごすと別の商会の人間たちが現れる。
助けにきたわけではない、裏切りだった。
「お前から密輸がバレないかという保険だ。悪く思わないでくれ」
商会の人間はほぼ作戦が成就するところまで来た時点で主人公たちを消すつもりだったのだ。もう少しあとになったところで羊飼いの少女も。
主人公は縛り上げられて狼の森に放置される。
「ここに一晩置いておけば生き残れるはずがない」
しかし商会の人間たちは別に悪の集団でもないし犯罪者たちでもない、普通の商人だ。耐えかねて去り際に主人公に胸の内を漏らす。
「自分たちの負債を全部チャラにできるだけの金を買う資金は用意できなかった」
「このままだと結局うちは潰れる」
「お前の分け前が多過ぎる」
ここで主人公は「てめぇバカやろう裏切りやがって!」とはならない。
不思議と「なるほど、そうだったか」とむしろ納得顔だ。
確かに冷静に相手の立場に立って物事を考えれば、彼らは負債を抱えて一円でも多くカネが必要な状況で、しかも金購入資金を全額出している。そんな状況で発案と紹介だけの主人公に分け前を払うのは納得がいかない、という声が彼らの中に上がってきても不思議ではない。理解ができる。加えて彼らは窮鼠だ。自らが生き残るために『商人ならざること』に手を染めることも選択肢としては十分あり得るのだろう。
このような展開(心理描写)になるのには当然主人公の性格というものがあるのだけどそれと同時に「商人の心理」「暗黙の掟」なるものが背景にあるように感じた。
つまり「相手の出してくる手が読めなかったら、それはお前が悪い」
商人とは計算高いものが生き残る業界である。取れる相手だと思えば多めに金を請求するし、金を払えない相手ならそれはハナから相手にしない。時に人を騙すこともあり、当然自分が騙されることもある。
しかしそれは『利を得る』という両者共通のルールの中での出来事なら騙される方が悪いし、仮に損をしたとしても『勉強料』として受け入れるべきだ。
現に主人公たちも『特別な毛皮』とウソをついて値を釣り上げたり、逆に暴落間違いなしの品物を掴まされたりもする。それは別に日常茶飯事であって、いちいち憤慨する話ではないのだ。
つまりそこには『あるプロフェッショナリズム』が存在するわけでそれのハードルは場所、時代、業界によってそれぞれ異なる。
我々が単純に考える一般常識とはちょっと違うのだ。
そしてそれを越えない限りはあくまで『織り込み済み』の話であって『見落とした自分が悪い』のだ。
どんな業界にでも、いざ入ってみないとわからない『特殊事情』や『業界の常識』はあるものだ。
それが一見たとえそれが一般常識からかけ離れていたとしてもプロならばきっちりとそれを理解しそして実践するべきである。
そこで音を上げたりグチグチ文句を言っているやつは所詮アマチュアなのだ。
プロサッカー選手が接触プレーで怪我した時にその相手に損害賠償請求したなんて話は聞いたことがない。
F1レーサーが負けた際のインタビューで相手のマシンの出来が良過ぎることを最大の理由として挙げたらそれはとても惨めなことだろう。
プロなんだから、そこは割り切って進まないと。
したがってこと『BtoB』『プロ対プロ』という商売上には一見一般常識とは違う特殊事情が見え隠れする。
「なぜそういう選択をするのか?」
「この会社の取り分は適正なのか?」
「どのくらいのリスクにどのくらいのリターンなら割が合うのか?」
こういう疑問を解決する際に『業界事情』の関与は外せない。むしろ仕事モードのときには一般常識よりもその『業界事情』の方がよっぽど重要な判断ベースであると言っても差し支えない。主人公は、いち人間としては当然怒るところだが、いち『逼迫して危険な山を渡っている商人』としては怒ることができなかったのだ。
ま、なおこの感情自体が時代や舞台背景に基づく『特殊事情』であるため我々『一般人』にはいまいち理解できなくて当然だ。
『BtoB』と相反する言葉は『BtoC』だと考える。
かくいう私はBtoCに近い業界を渡り歩いている。
というのも昔
「BtoCこそが純粋な商売だ。BtoBは汚いカネが右へ左へ流れてやがる」
と考えていたからだ。
まだまだ社会の仕組みに対する理解が浅かった身の上には、様々な事情や業界常識が何やら不可思議で触れたくない魔窟に思えたのかもしれない。グループ会社、複雑に絡み合った利権、法制とそれに呼応した事業開発、etc. 一般常識では汚く見える部分が多く存在するのも確かなことだろう。
一方、BtoCにおいてC、最終顧客は極めて理不尽であるし、しかるべきである。
すぐ流行に踊らされるし、飽きっぽいし、
メディア戦略に弱いし、根も葉もない風評が平気で闊歩する。
だからこそBtoCは「ちゃんとした商売」であるというのが、当時の私の主張だったのだ。
BtoCの商売においては「コネ」「しがらみ」といったようなものが全く存在しない。コネで数万台を売りさばける人なんていないし、ユーザーはしがらみのせいで購入製品を決めたりしない。
気まぐれで、不確実で、頭が良くないときもあるけど、それでも必ずいつも最後は『個人の意志』で購入を決める。
ある意味でとても正々堂々とした存在だ。
それに対してBtoBは『ビジネスライク』という言葉が存在するように基本的には『合理的』で『最適化』されており『サバサバ』としたものであるべきだ。というのが過去の私の想いだったのだが、言葉を少々変える必要がある。
BtoBは『プロフェッショナリズムに溢れている』べきなのである。
過去を振り返っても、これが本来の意味で、私が導くべき正しい表現だったように思える。
人間は不合理で間違えるしトラブルも起こす。
そこは仕方のないことなのだ。
だからそこに整合性を求めるのは間違っている。
合理的ではない結果を見て憤る必要はないし、不明瞭な判断にヤジを飛ばす必要もない。
あくまで真摯に求めるべきは
『プロフェッショナルとして行動しているか』
その一点なのだ。
理想に燃える若者には体の良い言い訳のように聞こえるかもしれない。
完璧主義者には不完全な弱者の戯言のように聞こえるかもしれない。
しかしこれが現実であり、そうやって世の中は回っていることを忘れてはならない。
理想に燃える若者や完璧主義者は社会の構成要素のひとつではあるが全てではない。人間のやることは全て一元的に並べて語れるようにはできていない。もっと複雑で不合理でリスクがあり非効率的だ。
これだけだと何かマイナスなことばかりだが、しかしそこにプロフェッショナリズムがあればさほど悲観する必要はない。
そこはむしろきっと豊かな営みに溢れている。
『事情』という言葉を安易に取り出すと逃げ口上のように聞こえて仕方がないが人間と人間の集合体で会社というもの、もしくは市場というものが形成されている以上なかなか個人の力ではどうにもならない物事が存在する。
ルールを変えるために奔走するのは素晴らしいことだ。
ルールはどっかの誰かが少数で決めたものだから。
しかし雰囲気や慣例、その歴史を覆すことは容易ではない。ひとりで立ち向かおうなんて蟷螂の斧だ。
逆らうのではなくその流れに乗ればよい。
むしろ逆に明確な『解答』が存在するはずなのだ。
事情をしっかり踏まえれば、押さえるべきところも見えてくるだろう。相手の事情を理解すれば、何を解決してあげれば良いかも見えてくるだろう。
社会全体の事情を俯瞰すれば、そのアイディアの勝機は「今」なのかそれとも「もうちょっと後」なのか、見えてくるんじゃないだろうか。
ついついそういうものを軽んじて勢いと思想と理想でどうにかしようとするのが若者の悪いクセであるなぁ、なんて歳を経た今思う。
プロフェッショナリズムの履き違えには要注意だ。
それにしても行商人というはきっとリスクの高い仕事だったのだろうなぁと思う。当然リスク配分という概念はあるだろうけど、ほとんどの財産をものに変えて移動しそれを売ることで得られる利益で暮らしているのだから常に全財産失うようなリスクと隣り合わせだ。
物語のなかでも出てくるがそうやって『組合』ができて、大きいものは『商会』つまり今の『商社』になっていったのも納得がいく。

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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