自己肯定感ではなく自己効力感を重視しよう
先日とある方から「私は自己肯定感が低い」と言われた。
その方は高校で芸術系の学校に行き、あまりに突出した人間たちに囲まれていかに自分が大したことないかを痛感したということらしい。
それ以来基本的に自己肯定感は低い、と。
確かにアートの領域で傑出したひとというのは特異な存在であることが多い。私は中学の同級生に現在大活躍中の漫画家がいるが、彼は授業中によく謎の落書きをしながら独り言を言っていた。
後ろの席のおれのノートにね。笑
変なやつだなぁと思っていたが卒業してしばらくしてマガジンの売れ筋漫画のアシスタントをやっていると聞いて、その後わりとすぐにデビューした。当初はアシスタントも無く全部自分で書いていると言っていたし、カラーの血の色が納得いく色が出なくて自分の指を切って書いてみたらいい感じでコレだ!と思ったんだけどすぐ赤黒くなっちゃって残念、とか言ってる相変わらずちょっとイかれたやつだ。
また、私はそれなりにサッカーをやっていた。
私自身は大したレベルではないが、都や県の選抜、全国経験者、いわゆる全国的な名門校のレギュラークラスがどういうレベルかくらいはある程度の肌感を持って知っている(一緒にプレーしていた)しかし、日本代表クラスとなるとよくわからない。私にわかっているのは「ああ、あいつらですら箸にも棒にもかからないレベルなんだ」ということだけだ。
一度、大学院生だった頃に「東京ヴェルディのOBチーム」と「愉快な寄せ集めチーム」で練習試合をしたことがある。寄せ集めチームの主催は元東京都選抜の友人だ。メンバーはほとんどJの下部組織か強豪大学の人間で、そこにぽつんと東京工業大学大学院電気電子工学専攻のM1が混ざってたのが今でもちょっと笑える。試合は、寄せ集めチームがヴェルディOBをボコボコにした。
OBといっても現役と思われる年齢層のひとがほとんどだったし、元助っ人外国人かなと見えるひともいた。でもボコボコにした。本当に、付け入る隙もなくボコボコに。
しかし、その時の「寄せ集めメンバー」の中からその後Jで活躍したひとは出ていない(少なくとも一般に目につくほどの活躍はしていない)
さて、このとおり「何かの達成」を元に肯定感を作るという発想は陥りがちなのだけど大変難しい。
まず上述のようにテクニカルに難しい。
高校サッカーの参加校はだいたい4000校だ。その中の1校が優勝校なわけだが、そこに連なるサッカー人口は17万人以上。またそれにクラブチームも分母に加わった上でそこから十数名の世代別代表が選ばれ、場合によっては最終的な日本代表には誰も選ばれない世代もあるだろう。それでも日本なんて世界で見たらまだまだ中堅国だ。途方もないピラミッド。
またゴッホは現代では有名な画家だが彼が生きている頃にはあまり認められていなかったとされる。フランツ・カフカは20世紀を代表する作家だが、彼も生前は評価されるどころかただの鬱屈したサラリーマンで、死ぬときに「作品は全て焼き捨ててくれ」と友人に言い残したほど。
彼らはきっと自己否定感にまみれた生涯だったのではないだろうか。
また意外に聞こえるかもしれないが成功した経営者の中には自己肯定感が低い人が案外多い。これは「肯定感が低いと成功しやすい」とかそういうノウハウ的な話ではなくて彼らは「満足できない」という一種の病気にかかっているという気の重い話(笑)だ。
肯定感を頼りにするのはやめよう。
肯定感は個性を彩る飾りのひとつでしかない。
全国一斉模試で一番を取ったとしてもそれは個性でしかないし
大学在学中に一発で司法試験を通ったとしてもそれは個性でしかないし
ベンチプレスで200kg上げようと100m 10秒切ろうとそれは個性でしかない。
では、私たちはどういう評価軸でひとを賞賛したり自分に納得したりすれば良いのだろうか?
効力感に切り替えよう。
「自己効力感」という言葉はあまり一般的ではないがきちんとした心理学用語だと思う。
要するに「自分は役に立っている」という感覚のことだ。
私の根本的な思想として「ひとの幸せは目の前にしかない」と思っている。
会ったことがない世界のどこかの誰かのために常日頃頑張っている人を否定するようなことをするつもりはないが、あくまで継続性に着目すると「きっとどこかに存在する誰だか知らない誰かのために頑張る」ということをやり続けることができる人は少ない。また「マクロ的に世の中のために」で頑張り続けることができる人も少ないんじゃないかなぁ。
だって、直接的なフィードバックも無ければ手応えもないんだもの。
それよりも目の前のひとが喜んでくれたり、助けになったなぁという感覚が得られることの方が、遥かに人の心を晴れ晴れとさせてくれることだろう。
仮にあなたが有名人だったとする。
それでも、別の投稿でも書いたが、外向きの情報というのはあくまである程度コントロールされたものである。それを元に賞賛されてもその手応えは実体とは異なる、間違ったものになりかねない。
つまり「あなたが直接関わっていない人からのあなたに対する評価はあなたを幸せにはしてくれない」ということだ。
そんなものに右往左往して過ごすより、目の前のひとにどう思われているかをもっと気にしよう。
誰かが困っていたら助けよう。
自分がソリューションを持っているのならケチケチせずに分け与えよう。
悩んでいる人がいたら話を聞いてあげよう。
自分の経験からアドバイスができることもあれば、全く何も言えなくてただただ聞くことしかできないなんてこともあるだろう。しかしそのどちらであろうと聞いてもらうことで彼/彼女の気は幾分晴れたはずだ。素晴らしいことじゃないか。
がんばってみよう。
それを隣で見ている人は力づけられるかも知れない。
ものごとを丁寧におこなってみよう。
それを隣で見ている人は自らの行いを省みるかも知れない。
誰かのためを思って行動しても、跳ね返されたり、むしろ悪い結果を投げ返されたりすることはある。しかしそれでやめては何にもならない。淡々と目の前のひとのために何かをやり続けるのだ。
これはマザーテレサが言っていたこと。
もし「自分がいて何かの役に立っている」という実感が持てなければ、あなたの「居る場所」を変えることも選択肢だ。
人類70億人いれば70億通り、ではなく
70億 Combination 2 ≒ 2.5 x 10^19
通りの関係性があって然るべきだ。
もしあなたを苦しめる何かがあったとしたらそれは絶対的な何かではなくて相対的な何かだ。あなたのスキルや性能は先ほど言ったとおりにちょっとした個性のお飾りでしかない。鼻が高いとかお肌綺麗とかと同じくらいと思えば良い。あなたが幸せになれるかどうかにはあまり関係が無い。
目の前の人を幸せにしよう。
TwitterやSquareのCEOであるジャックドーシーは、Twitterは「母親」Squareは「ガラス職人の友人」が喜ぶと思って作ったという逸話がある。
彼のビジネス的な慧眼は素晴らしいが、スタートのモチベーションなんてそんなものである。
自己肯定感は一見頼り甲斐があるが、実は不安定で、自作自演もできれば無駄に依存することもある意外と厄介な代物である。
自己効力感はさほど大きな揺らぎもなく、しかし積み重ねが徐々にしっかりと実を結んでいくような、オトナなシロモノである。