Draw Down〜地球温暖化を逆転させる100の方法〜を読んで私見を述べる

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いくつかの回に分けてDraw Downに書かれていた内容をメモ的に整理した。

[関連リンク]
・Draw Down〜地球温暖化を逆転させる100の方法〜についてメモ(エネルギー部門)
・Draw Down〜地球温暖化を逆転させる100の方法〜についてメモ(農業部門)
・Draw Down〜地球温暖化を逆転させる100の方法〜についてメモ(自然保護)
・Draw Down〜地球温暖化を逆転させる100の方法〜についてメモ(運輸部門)
・Draw Down〜地球温暖化を逆転させる100の方法〜についてメモ(建設・都市部門)
・Draw Down〜地球温暖化を逆転させる100の方法〜についてメモ(材料部門)

率直に感嘆すべきは「残存課題の多さ」と「多くの国々で様々な取り組みがされていること」ではないかと思う。

私は以前大気汚染情報を収集するというプロジェクトに取り組んでいたことがあるが、当時のアメリカや日本ではなかなか理解者を見つけるのが難しかった。

だがそれはもう過去の話である。

私がそのような取り組みを行なっていた頃から、いや、むしろそれよりもずっと前から多くの取り組みを行なってきた世界中の人々がいることに非常に勇気づけられる。

しかし、では何故そのような大きな認識のズレが起こっていたのか? というのが一つの疑問として浮かび上がる。

当時よく言われたことに
「アメリカは空気が良いし土地が広いからそんなことに問題を感じる人はいない」→確かに事実
「環境なんて金にならない」→確かに事実
というコメントがある。

両者とも確かに事実である。

しかしWHOしかりEPAしかり、常に大気汚染の影響による死者数の増加をアラートしているし、インドや中国では深刻な大気汚染の被害が毎月のように報告されている。
それなのに無関心。つまり未だに多くの国々の人々にとっては環境問題はなかなか『自分ごと』までは落ちていない、という現実を私は見せつけられたというだけのことだったのだ。
アフリカの食糧支援のために1000円寄付するかも知れないが、現場に行って具体的なサポートをしようとは思わないし、プロジェクトをサポートするために億円単位を出資することなど考えも及ばない、すなわちそういうレベル感だったということだ。

また歴史的に環境は「共有財」として市場経済の外に置かれてきた。良くしようと悪くしようとそこに直接的な経済的合理性はない。規制があればやるし規制がなければやらない、乱暴に言えばそういうものだったのだ。

しかし近年それは大きく話が動いている。
具体的には炭素税の導入であり、さらにはカーボンクレジット市場の進展だ。

いま環境は経済に取り込まれようとしている。 これをネガティブな視点で見ている人もいることだろう。

20世紀前半に活躍したハンガリーの経済学者カール=ポランニー「偽りの3商品」として「労働」「土地」「貨幣」を挙げ、これらが完全に資本主義的に商品化されるべきではないと論じた。
すなわちこれらはあくまで経済的合理性だけでなく、様々な政治的制約や管理の下でしか取引されるべきではないと。

ポランニーのような視点に立てば「環境」はどうだろうか。
例えば土地は商品化が進んだ結果極端な都市化が起きていることは先進国共通の課題である。日本だけでなく多くの国々でバブルの元凶ともなった。まさしくポランニーの指摘のとおりである。

しかしカーボンクレジット市場は欧州やオセアニア、南米などで注目を集めてきており、これはつまり
「新たな金融市場を作り出すことで世界の勢力図を再調整する」
という試みだと私は理解している。

化石燃料をガンガン採掘して、大量生産大量消費でグローバルサウスを搾取すれば全て解決する時代は完全に終わりが来たことを誰もが理解している。 カーボンクレジットはその次に来る社会の画を描こうという試みのひとつだと捉えることができる。
そして前述の『自分ごと』で捉えられない人々を、否応なく共通のテーブルに引き摺り込む戦略としてはなかなか巧みに機能しそうではないかと個人的には見ている。

現在は「Privateなカーボンクレジット市場」というものが跋扈している時期だ。これを如何に統合的に管理するプラットフォームが登場し、それを誰が管理することになるのか、というのが「環境の商品化」の成否を握っている。

さて少々脱線したが、上記だけでなく多くの視座において環境対策あるいは環境ビジネスは周辺状況が整ってきていると言える。
そんな中で何にどのような課題が残され、そのインパクトを推し量るにはどのように考えるべきかというアイディアがいくつもDraw Downには詰まっていた。

私が特に大きなインパクトを強く感じたのは「農業」の部門だった。 ポイントはいくつかあるが概ね以下の2点でまとめることができる。

・技術的統合が十分に進んでいない
・技術的先進国がどこだかあやふや

まず技術的統合について。
多くの項目について「何が正解か」について十分にグローバルなオーソライズがなされていないように見える。

例えば環境保全農法あるいは環境再生農法は、従来の農法に比べて環境負荷の面でもコスパの面でも優位だということがわかっているという(著者は)。しかしそれに切り替えるという取り組みがあまりに散発的なように見えて仕方がない。

他の例ではアグロフォレストリーも1980年代からオーストラリアでは一般的だと別の本に書いてあった。
きちんとしたら政府からの方針の提言もあり、広大な土地も好条件であったため広まったと考えられる。
しかし日本でそのような光景を見ることはないように思う。旧来通りの「畑は畑」「水田は水田」「牧草地は牧草地」「森林は森林」だ。

雑草の処理についてもいくつも夢のあるアプローチが書いてあったが、それらのどれも所謂一般的な農業の教科書には載っていない(つまり現場で採用されているケースはほとんどないと考えられる)。

日本では「自然農法」に関する書籍を読むとこれらのアプローチとほぼ同様のことが書いてある。
ウッドワイドウェブの箇所で捕捉したような微生物同士の共生やそれに対する肥料の悪影響などもほぼ同じことが書いてある。
多くの研究者がとうの昔に気づいていることなのだ。

しかし筑波大学の中島教授の著書に「技術論が十分に確立されていないことが課題」だとあった。

つまり研究者と一部の農業関係の協力者との間での出来事であって、多くの営利企業はまだまだ多投入(肥料や農薬)による大量生産大量消費の罠から抜け出せないでいる。

「低投入」「循環」「自然共生」の理想にはほど遠い。

次に技術的先進国について。

ブルキナファソの事例の箇所でも書いたが、結局地元住民の地元ならではのやり方が有効だと証明されることが多い。
別の書籍で、自然共生農法と呼ばれる手法でも種は「初年度はとりあえずあるやつを適当に撒く」のだという。そこで上手く育ったものがその土地に合っているということだから翌年以降はそれらを輪作や多毛作でどう組み合わせるかをしっかり考えると、そのあと特に手を入れなくても自然な循環が生まれるのだという。
逆に有機農法では、有機農法に適した土地になるように土壌に調整を入れまくる(これをやり続けないとキープできないからそのせいでコストが高くなる)、なんて批判もあるようだ。

「日々の食物」という観点でいくと、農業にかけられるコストは決して大きくない。 スーパーに並ぶ野菜たちの値段を見ればそれは明白だろう。
市場経済はそれを数の論理で解消してきた。
一括で大量に生産すれば安くできるという我々にとって極めて馴染みのあるアプローチだ。
それはハーバーボッシュ法の発明による窒素肥料の改革や農薬の改良の歴史などを経て現実のものとなった。
しかしそれらがもたらす環境負荷と土壌の持続性に対する懸念が近年持ち上がっているのは言うまでもない。

間違っていたのであれば振り返って引き返して別の道を探るべきだ。

先進国はその答えを既に知っている。 とはいえ先進国ってどこだっけ?
時代の転換期において、多くの学ぶことが「経済的後進国」に隠されている可能性が高い。

農業の極めて厄介な点はその土地ごとの特色に合った農業をしなければならないことで、それに抗っても良いことは何もない。したがって土地を知ることが極めて重要だ。

以下はあくまで個人的な仮説でしかないが、その点において技術にできることが多く残されているのではないかと考える。

当然農地を切り開くときにその土壌の検査を行う。ボーリングなどもして地下も含めた詳細な検討を行うのだと思う。しかしそれらは時間的空間的な断片を切り取ったものでしかない。
これが問題である。
検査を複数箇所で行うのはコストがかかるし、検査を広範囲で行うのもコストがかかる。
したがって時分割で非常に粗いデータしか取れないし、空間の分解能も決して十分ではない。
ここを改善することで「こういう土地だからこういうやり方が良い」というようなテンプレ選択の精度も上がり、かつ各所での土壌データと収穫データを統合することでテンプレ自体のバリエーションも増えていく。

そのようなデータ統合を民間で行おうという試みはあるようだが、会員になるだけで結構な金が取られるようなのでやめておいた(なぜこういうのをオープンなプラットフォームでやれないか)

農業においてIoTにできることはまだまだ在る。これは間違いないと思う。
(が、当然ながら既に様々な方が試みているのでなぜ上手くいかないかを注視する必要がある)

さてここで少し視点を変えると、エネルギー部門は私個人の専門性も近いし理解しやすかったが、幾分飽和状態にあるように感じた。あくまでポジティブな意味合いで。

各種発電方式はそれらの技術的な優位性や発電効率などについてだいたいのところがもうわかっていて、完全に実用ベースである。
そして逆に長年試みられながらも未だそこに届いていない発電方式たちに、あまり明るい未来があるようにも感じなかった。
つまりすでにテーブルにカードは揃った状態で「さぁこれを使ってどうするか」というフェーズに来ている。

そうすると益々重要性を増すのはグリッド関連のテクノロジーだろう。

それぞれの再生可能エネルギーの方式は自然に則するが故のそれぞれの欠点を持っており、それらを最適に補完する動的なシステムが必然的に求められる。 これは壮大かつ大変な話であることは間違いないが、技術的な限界や制約は正直あまり見えず、決して画期的なイノベーションが求められる領域というわけではない。粛々と積み上げて達成されていく姿が想像できる。

どちらかというと問題になりそうなのは化石燃料や原子力に伴う既得権益の政治的な排除ではないだろうか。
これらは「再生可能エネルギーはまだ完全ではないから」というExcuseで生き長らえているが、それはもはや永くは続かないということを皆理解している。
また既得権益には資本家だけでなくそこに勤める従業員もぶら下がっている。
低コストでメンテナンス性の良いエネルギーへの移行、AIの活用による運用コストの低減などが進めば進むほど、それら「既得権益」との対立はより一層鮮明になっていくことだろう。

自然保護については専門性が無いため「うーん、なかなか勉強になった」という程度だったが、海洋パーマカルチャーの話は正直震えた。非常に大きな創造性を感じたからだ。

海に植林するという発想は確かにあって良いと思う。
光合成もするしプランクトンも増えそうだし、そしたら魚も増えるだろう。

そこまでは良いが、潮力・波力発電を使って深海から冷たい水を引っ張ってきて鉛直混合を起こし、海面を熱さない。
ケルプが二酸化炭素を隔離したまま海底に沈む。
海洋大循環と組み合わせて上手く設置箇所を設計をすれば数千年単位で炭素を隔離できるだろう(これは私見)。

エネルギーはいらないし、エネルギーは回収しないからどこでもできる。
全体のロジックの整合性とスケールに圧倒された。

さて、正直これ以上いくらでも書けるのだが一旦このくらいにしたい。
環境の分野には大きな可能性と必要性が溢れている。

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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