「リベラリズムはなぜ失敗したのか」の意訳まとめ①「強い国家、弱い国民」

By | October 10, 2020

ここ数年のトレンドとして「資本主義の失敗」「民主制の崩壊」など多くの場所で言われるようになったと感じている。きちんと押さえたい。

いくつか書籍を漁ってみたがこの本がもっとも妥当で理性的に書いてあるように思えて気に入った。自分用の覚えメモとしてまとめておく。

リベラリズムはなぜ失敗したのか

著者はパトリック・J・デニーン(Patrick J. Deneen)
米国ノートルダム大学政治科学部教授。過去にプリンストン大学やジョージタウン大学でも教鞭を取る

内容も分厚く長文となるため何回かに分けることにする。

論旨

リベラリズム(あるいはリベラルデモクラシー)は中世の貴族制以降に生まれ、世界を飲み込んだ。19世紀にリベラリズムに否定的な流れがあり、様々な別の支配制度が模索された(共産主義もそのひとつ)しかしそれら全てにリベラリズムは勝利し、世界唯一の政治制度として覇権を握ったかに見えたが、やはりいくつかの歪みが近年続々と表出しており、改めてリベラリズムが揺らぐ時期が来ている。
主なポイントとしては「広がり続ける格差」「弱くなり続ける個人と強くなり続ける国家」「モラルの低下」そして、それらがリベラリズムが失敗したからもたらされた事態ではなく、むしろリベラリズムが成功したからこそそうなっている、つまり過去よりリベラリズムはそうなることが宿命づけられていたにも関わらず世界がそれを捨てるもしくは十分な代替案を立てることができずにここまできた、そして放っておいたらきっとそのまま続くだろうという極めて深刻な懸念がある。

ここでは「弱くなり続ける個人と強くなり続ける国家」というポイントに主眼を置いて整理する。

リベラリズムの陰り

ルネサンス時代にリベラリズムは芽吹く
500年前から存在した思想が、250年前のアメリカ建国で実現した。(その後諸外国へ拡大していく)
リベラルデモクラシーが台頭した頃「みんなが選挙で選んだ代表が貴族階級を排除してくれる」と考え、それを実践した。

リベラリズムの成果
・恣意的な不平等の解消
・君主政治貴族政治の没落
・近代技術の進歩
・宗教戦争の終結
・グローバリゼーションの推進
・性差別・人種差別・LGBTなどの解決

フランシス・フクヤマ
1989年に「理想的な体制に関する長い議論は終わった」
しかし彼は2000年代に入ってその主張に反する著述をするようになっている。

今や市民は後釜たちのことを貴族階級よりよっぽどたちが悪いと思っている

リベラリズムの成立以降、数々の社会規範や宗教的慣習を壊し続けている。
持てる者だけが感謝する実力主義社会であるが、アメリカがその自由を享受した時代は陰りを見せ、アメリカ人の7割がアメリカのピークは終わったと感じている。

国家主義と個人主義は同一

言葉で言うと違和感があるかも知れないが、「国家主義」と「個人主義」は同じである。いや、同一の方向に進む両輪である。
事実、国家主義と個人主義は持ちつ持たれつで成長してきた。どちらもリベラリズムを推進している。

アメリカ政治でいう保守派と革新派
「古典的リベラリスト」と「革新的リベラリスト」と言い換えることができる。
保守派は市場原理を信じて小さな政府を目指すことで個人主義の達成を目指す。
革新派はそれを否定して国家の関与を推進することでやはり最後は個人主義を達成すると考えている。
が、両方ベースは同じだ。

ホッブス「リヴァイアサン」(1651年)
解放された個人は国家に社会規範の抑制を期待する。自立した個人しかいない国家では、個人は国家に抑制される

トクヴィル「アメリカのデモクラシー」(1835年)
個人主義は国家主義の原因。個人主義は結局困ったときに頼る人を無くす

リベラリズム成立当初から懸念されていたことが、実際に我々の身に降りかかっている。

国家に頼る

個人が個人で身を守ることは難しい。だから集団を作る。集団を上手にコントロールできたことがホモサピエンスが生き残った理由だとも言われる。
しかし、リベラリズムが浸透しきった社会において個人は様々な脅威にさらされ続けている。頼るべき集団が存在せず、信頼できる文化規範は存在せず、結果、唯一頼れる相手として国が何事も法律でコントロールすべきだと考えるようになる。

つまり地域的な組織との関係性が希薄になると、孤独と混乱から国家というむしろ遠方なものと同化したがる。
家族や地域、宗教や文化との繫がりが、経済的自立を阻む悪として取り上げられ、それらを避けることで孤独を募らせ、最後に残った唯一正当そうな組織、国家に酷く依存する。これらは徐々に起こる。

リベラリズムが広まって150年経った20世紀前半にファシズムが吹き荒れたのはそういう理由。

マディソン「軌道の拡大」
市民同士を対立させ、結束を難しくすることで特定の利益が促進されると説明した。
まとまりがなく、統治者階級に全てを任せるしかなくなる。
公共を諦めさせ、もっぱら個人的野心の達成を求めるように仕向ける。そして国家はそれを促進サポートする
そうやって富が増大した国は他国からの侵略を恐れる必要がある。それは程度が予想できない。なので国家には無限の権限を与えておかなければその有事に対応できない。

人間は生来距離の近いものに親愛を抱くもの。中央行政より地方行政のはず。本来は。しかし『優れた国家運営』によって地方を魅力的なことができないように仕向ければ(税制、予算の制御)自然と優秀な人材が中央に集まり、その偏りは促進される。
地方行政を弱めればより一層国家主義に近づくが、それは個人主義にも恩恵があると考えられている。

近年、技術の可能性とある意味での驚異は絶好のモチーフとなっている。

アンマン派

プロテスタントの一派アンマン派。技術嫌いとして知られる
自立を重んじる共同体で、アンマン派の中では納屋を共同で建てることは共同体の絆を固める行事となっている。
また共同体を支えるために役に立つかどうかで技術を取り入れるかどうかを決めている。
ファスナーとか自動車とか首をかしげてしまうものもあるが、面白いのが保険。共同体自体が保険そものもであり事業会社が運営する保険は不要だと考えている。
従来の保険の構造では「自分が払った保険が誰の何に使われているか」つまり自分は誰の何に対して義務や責任を担っているのかが一切見えない非常に無責任な構造になっている、ということだ。

リベラリズムの幼稚な勘違い「人間はもともと正しい」

初期のリベラリズムを推進した人間たちは哲学的な「自然状態」に置くことが正しい結果に結びつくとなかば純粋に考えていた。

つまり、古代の自由(=徳性に基づく自由)から近代の自由(=解放された全ての自由の追求)へ変化させてもなんら問題はないと主張したわけだ。これは「人間は生来自由で自立している」という考えの幼稚さに他ならない。子供がおらず、自分の幼少期も忘れてしまったに違いない

「しがらみから離脱した個人」というものはそもそも自然状態には存在しなかったが、リベラル国家の力によって人工的に作り出されている。それらが正しく規範を持って秩序ある行動が取れるのか?長期的な視点で人類や国家のために貢献するよう行動できるのか?結果が今目の前に突きつけられている。

交際や結婚の規範の低下、既婚未婚どちらでも個人の自立を優先するシステムのサポート、子供は益々重荷となり出生率の低下

無規範が法律の強化を必然とし、監視社会を必然とする

ソ連の小説家ソルジェニーツェン(1979年)
「法律に触れていない人の批判はできない。自発的な自己抑制が存在しない社会ができた」

共同体という処方薬

思想家ウェンデル・ベリー
共同体とは「信頼、善意、自制、忍耐、共感、寛容」で成り立つ。制限の場である。
健全な家庭生活が肝要で、家庭生活の規律が小さな自己充足に流れるのを防ぐ。
また共同体に基づく教育機関は国家の主権に逆らうことができる。
共同体で生まれた子供の教育を共同体のみんなで心配する。
『公益』は狭い共同体でしか成立しない。広くなると必ず問題が抽象化し、現実に歪みが発生する

トクヴィルは1830年の訪米時にアメリカ人たちの地域活動への熱心さに驚いた。
タウンシップ論
自己統治は長い修練と議論によってもたらされるもの。
人民による公共の問題処理は確かに稚拙なことがある。しかし、それを繰り返して修練しなければ、遠い政府の隷属から逃れることはできない。民主主義で決めたことが正しい結論になる可能性はむしろ低い。しかし、そうやって政治に関与し続けると言うことをしなければ、いずれ立場は奴隷と同じになってしまう、と訴えた。
ポリス的生活
地域で自己統治により諸課題を解決する修養。自制心と自律の習慣。政治的判断力の養成

家庭経済を回す
節約や倹約のこと
自分で作り、自分で行う
家庭菜園は良い例
自然の恩恵と人間の限界を理解する
自然のリズムに人間が加わり、それを賛美すること

抽象化と無関心から遠ざかる
消費はどんどん匿名性が強まる
地域経済を回すと、その金が誰に行ってどこに使われるのがありありとわかる。社会の構造をきちんと認知することができる

他の人間のために自分の狭い個人的利益を犠牲にする後天的な能力の修養

自己統治の実現と相互教育

現代政治哲学で言うと
コミュニタリアン(共同体主義)
リパブリカリズム(共和主義)
あるいは
バーキアニズム(古い慣習を重視した生き方)

ロッド・ドリーハ
ベネディクトの選択
カウンターカルチャーへの対抗
文化や共同体の再構築(大規模農場とか)

自由はしんどい

競争するか、奈落の底かという2択で育てられる若者たち
「勝者はペテンにかける側でありかけられる側でもある」
勝つために他者をペテンにかけるが、本人は「勝つことが正しい」というペテンにかけられている

リベラリズムには実は選択肢がない
大学は宗教や人権問題などを排除した実用的な教育を施したものを量産し、彼らは高級取りになりながら社会と格差に不満を持ち、大学は次の似たようなネタ(その時々に実用性のありそうな)を並べて改革をしたように見せる

リベラリズムの中に生きる我々は、iPhoneかGalaxyかという選択をしてるだけで「スマホは有用かどうか?という選択を半ば放棄している」本当に自由なのはどちらか?

ホッブス
「人間はより多くを求め続けて死ぬことでようやくそれが終わる」