ググレカスとテラワロスは幼馴染

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two man walking in between of buildings toward with concrete building

ローマ帝国元老院議員のググレカスと詩人のテラワロスは竹馬の友である。(Wikipedia参照)

もはや20余年前となるネット黎明期を思い起こすことができた。
いわんや「ネットの情報を信頼するかどうかは慎重に」と。インターネットリテラシーというやつだ。(死語?)

ここで上記問題の「ことの真偽」は問題にはしない。私は歴史学者ではないし言語学者でもないしその点について一切興味がないからだ。
そもそもググレカスがどういう人間だったかということはなにぶん昔の人のことだし、あとググルカスという名前のよく似た人物もいたらしく色々な情報がイマイチ信憑性に欠ける。テラワロスについては、もうどうなんだろ、よくわからない。まぁどうでもいい。ということで華麗にスルーする。

さて問題は、
インターネットがもう一片の曇りなく完全に大衆のものになっているなぁということ。
それによって老若男女、善悪の分別有無、知識度合い、様々なひとが半ば盲目的に(良い意味では平等に)介入し、事の真偽などわからなくなっているということだ。
場合によっては明確な悪意によって情報を捻じ曲げに行く人もいるし、それが一度「ネットで権威がありそうな人」が同調してしまったら最後、それはおおよそ真実となる。

インターネットの初期において利用者はほとんど学術関係者だった。
したがって情報自体の確度は高く担保され(なんとなくだが)安心して歩ける世界だった。しかしひとたび普及期に入ると、それはもう加速度的に有象無象のプレイグラウンドへと変貌を遂げた。

例えばインターネット広告事業というものが出始めた時期には、派手な文言やオイシイ情報(当然嘘情報)でバナーやリンクをクリックさせ、実態は海外のよくわからないサイトに飛ばされる(バナーやリンクを設置した人間にはそれで広告料が入る)という悪質な手法がもはやある種のテンプレとなり、それに呼応して「インターネットリテラシー」というものが語られ始めた。要するに「ネットの歩き方」を教育・啓蒙する必要性が社会的に強く認識されていたわけだ。

さて、で現代はというと、インターネットが世の中に欠かせないものになり、セキュリティ対策技術も進歩を遂げ、インターネットは歩くには安全なところになったのだろうか?
否、少々抽象的にいうと「インターネットは実社会に極めて近似的な代物へと近づいているのだ」と思われる。

実社会ねぇ。

例えば、日本はいまだに世界最高レベルの治安を誇る国である。
そんな日本で、目の前でものを落とした人がいたら、そりゃ10人中7人は拾ってあげるのではないだろうか。親切。素晴らしい。
しかしこれは治安の悪い国ではスリの典型的手法だ。コンビ打ちである。落し物をして困ったフリをする役、親切な人が拾おうとしたらその隙に荷物を奪ったり財布を盗んだりする役、という、説明されれば納得。シンプルかつ合理的な手法で、多少海外を旅した事のある人なら大抵知っている(場合によっては遭遇したことがある)とってもベタなやりくちのひとつだ。

つまり親切で拾ってあげてよい国や地域もあれば、親切が仇となる国や地域もある。それが実社会だ。
インターネットは押し並べてそのような世界にキッチリと変貌した。

しかし、
「普通の世界になったのであれば、普通に生きていけば良いじゃないか。めでたしめでたし」
とはならない。
なぜならインターネットの世界では、日本とエルサルバドル、シンガポールとメキシコシティ、シリアとアフガニスタンがすぐ隣に存在し、しかも常に「今それらのどちらに居るのかがいまいちハッキリしない」からだ。何かしらの境界があなたを守ってくれることなどない。ドメインもあてにならない。メールなんて偽造し放題。フィッシングサイトの巧みさはもはや芸術の域。

シリコンバレーに住んでいた時に、異常に家賃が安いエリアがあった。
ローカルの友人に聞くと「あー、そこは銃撃戦がたまにあるエリアだからね。ギャングの拠点があるんだよ」と答える。
(そこからFacebookの本社とかが割と近くにあるので笑えるのだが)
現実世界においては当然「そのエリアには住まないし、近寄らない」一択だ。
誰も安い家賃を目当てに自らの命を危険に晒したくはないだろう(止むに止まれぬ事情がある場合を除いて)
物理的境界は極めて従順に機能する。

しかしネットの世界ではそうはいかない。

また同じような話として、中学生の時に「3年の先輩が必ずタムロしてる便所」があった。したがって中1の清く正しいパンピーは当然近寄らない。しかし下校する際に必ずその前を通るのだ。
運が悪いと先輩に捕まる。そのあとの詳細はご想像に。。。
したがってそれを回避するためには健全に部活動に入り、夜暗くなるまで練習に励み、先輩方が便所に飽きて別の場所でタムロしてるような時間帯になったら帰宅すれば良いのだ。
Before Internet時代の中学生の危険回避などその程度。至極簡単な話だった。

しかしネットの世界ではそうはいかない。

命を失うほどではないが銃撃戦が起きているエリアの流れ弾を食らうことはある。さきほど言ったようにすぐ隣で起きていたり、うっかり危険地帯に踏み込んでいたりするからだ。
加えてネット上の銃弾は無作為的で数量に限りがないことが多い。その典型はウィルスだろうしフィッシングやアカウント情報略取の詐欺もしかり。仕掛ける側からすると一度準備しておくだけで際限なく被害者を増やし続ける連鎖爆弾だ。
10年ほど前の話だが、イランの核施設におけるウラン濃縮設備のハッキングは1個のUSBメモリから始まった、とまことしやかに言われているんだとか(真偽は私は知らない)もはやリアルとネットのセキュリティの管理ほど複雑な話はない。

また、もっとシンプルな話では、冒頭のような「ことの真偽が確かではない情報」も十分な害毒だと言える。
ググレカス = そんなこと他人に聞く前にGoogle先生に聞いてみなはれという意味のネットスラング
が示すように、ネットの情報が然り正しい情報であると考えてしまう傾向は近年非常に強い。危機感すら覚える。
しかしその一方で、数年前にリスティングの基準を変更するまでのGoogleはある程度意図的にSEO対策(検索上位に来るような工夫)が可能であったとされている。(最近は知らない)
これはつまり一定の努力、場合によっては金を使えば、嘘も本当になる、ということだ。
非常にアンバランスである。

ネットに存在する嘘情報など挙げだしたらキリがない。
「〇〇がなんと〇%OFF!」というような詐欺広告から、各種掲示板での人種差別的発言から、しまいにはSNSでの誹謗中傷まで。
公共に存在するものから仲間内の会話まで、まさに嘘情報に溢れかえっている。

しかし、

どうも最近我々は安穏と過ごしていないだろうか?

正直警戒心薄れてない?

慣れ?慢心?安全神話?

リスクとスリルとを踏まえてまさに波乗りに挑むようにネットの情報を貪っていた20世紀から、日々当たり前に触れるが故に、圧倒的な情報のシャワーに満たされるが故に、どうにも足元に落とし穴が開いているような気がする21世紀になってしまった。

ショルダーバッグは前に!と緊張しワクワクしながら旅した東南アジアの路地裏から、ケツポケットからスマホはみ出したまま闊歩する銀座三越前になってしまった。

ちょっと気を引き締め直す良い機会ではないだろう。

writen by ググッタハ・ナシモウ・タガエカス
(古代ローマ帝国の思想家。生没年不明)

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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