『人脈』っていう言葉を使うのに軽く嫌悪感を覚えたら日本人

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young ethnic male with laptop screaming

# この記事は以前の投稿の復刻版=back numberです
まず最初に、ことアメリカ社会においては人脈ってとても重要だ。
日本にいたときにも多少はそう思ったけどアメリカに来ると重要度が跳ね上がる。
それは雇用形態の話だったり、日本みたいな階層構造ではない組織構造のうんぬんとか、まぁ色々なものが絡み合っての話なわけだけど基本的には単にみんなそういうのが嫌いじゃないんだと思う。
文化と言っても良い。
したがって古くから『人脈』という言葉に幅広く親しいアメリカ人はそういうものの使い方やコントロールの仕方が上手なんだと思う。
適切な人脈とつながり、適切な関係を築き、適切な交流をしていく。
それに対して日本では『人脈』は比較的嫌悪感をもって受け取られる言葉だろう。
なんでそうなのかというのはまさにさっきの裏返しで終身雇用的な雇用形態の話だったり、階層的組織構造だったり、全体主義だったり、まぁ色々なものが絡み合った末の文化なのだが、基本的には単にみんなそういうのが苦手なんだと思う。
かいつまんで言うと人脈ってのは
・何かがあったときに自分のことを思い出してもらえるか
・自分からそのひとに直接アクセスできるか
の2点で語ってしまってさほど問題は無いだろう。
シナプスとシナプスをつなぐ神経経路がアクティブになっているか?ということなのだ。
アクティブにするための方法はそんなにたくさんはない。
基本的には「相手にきっちり定期的にアピールし続けること」と「いざとなったとき、そこまで親しくなくても勇気を持って連絡すること」だ。
どちらも日本人には比較的苦手な要素だと言わざるを得ない。
だから『人脈』=『さかしい』みたいなイメージが日本人の中に自己回答として蔓延して行ったのだと思う。
しかし、いろんなところで『人脈無しでは無理』ということも世の中には多い。
あるビックプロジェクトが居酒屋でのなんでもない会話からスタートすることもあるし、大企業と戦う際に正面玄関から突っ込むのはなかなか骨が折れることだ。
そんなこんな考えていると、とある2つの事例を思い出した。
ひとつはお笑い番組。
「いかにして一発屋を逃れるか」を真面目にディスカッションする回だった。
とにかくポイントは
「誰でもどの局でもいいから最低でも一人のプロデューサーに『プライベートで誘われるレベル』まで気に入られること」だそうだ。
大抵の番組は一巡するとメンバーを入れ替える。
そこで「あ、あいつ入れてみようかな」と誰かの頭に浮かぶこと。それが重要だと。
当たり前だけどそのとおり。
番組でいくら良いパフォーマンスして視聴者にウケててもそれだけでは生き残れない。
番組の構成を決めるのは他でもない、プロデューサーなのだから。
一巡したら「うーん、そろそろあいつはもう飽きられる頃だよな」って誰でも思う。
そんなとき「いや、あいつの面白さはもっと別にもあるよ」「あいつならこういうコーナーでも使える」とさらなる味をひっぱり出してくれるのはそういう『プライベートまで知った仲のプロデューサー』だという。
なるほどなるほど。
これってうちらの社会人の業界でもあまり変わらない。
新規プロジェクトとかで呼ばれるのは大抵「あ、あいつ入れてみようかな」と頭に浮かんだ人間だ。
人事的なうんぬんはあるけど基本はそれ。アメリカなんかだとメチャクチャ顕著。
もうひとつはそれもまたお笑い番組だが、
「セレブパーティー潜入!」とかやっててそこで実名をさらしてた自称セレブ社長のひとりが、どうも調べていくと詐欺まがいの行為でほとんど夜逃げ状態で会社をたたんで金を持ち逃げ、というのを繰り返しているやつだ、というのがネット上で暴かれている。(おれもちょっと調べてみたけどどうもその情報は正しそうなカンジだった)
で、そのパーティーを企画して場所とか女の子のコーディネート(古い時代の言葉で言えば『パー券売り』の類い)をやっている自称「オーガナイザー」ってのが学生なんだけど「人脈作りのためにやってるっス」みたいなことを言ってた。
いやいや、完全に将来は詐欺の片棒担がされますよ。と。
ひとくちに人脈って言ったって明確なビジョンが無いと痛い目を見る。
これらはいささか極端な例だが、人脈ってのは何がどう助けになってくれるかわからないし何がどう転んで人生間違うかもわからない。
意外なひとから意外なタイミングで声がかかることもあるし、そんなつもりはなかった関係から劇的な出逢いや変化がもたらされることもある。
日本で「人脈!」「人脈!」「人脈ぅぅぅ!」って連呼したら間違いなく嫌われるだろう。笑
日本人は『愛想笑い』『ごますり』に代表されるように相手にうざったさを感じさせたり、相手を余計につけあがらせる態度を取ってしまったり、『友人』『家族』『職場』以外の関係性の構築があまり得意ではない傾向がある。
そういう日本人にとってきっと人脈構築って心の底では
「正直めんどい、でものちのち得があると思ったらやらなきゃならない」
そういった類いのものなのだ。
上司と飲みに行く、接待ゴルフ、そういったものの延長線上に存在する『なんか薄汚い存在』なのだ。
なんともつまらない。
でもナチュラルな社交性を持ち合わせているアメリカ人はそういうのをさらっとこなすわけだ。
彼らは馴れ馴れしいし、へりくだらないし、逆に横柄にもならない。
ちなみにシリコンバレーでは名刺を交換する習慣があまりない。
名刺コレクターになったところで意味がないからだ。
名刺だけ持ってる関係なんてさきほどの言葉で言えば『アクティブではない関係』だ。
もし連絡が取りたいことがあったらお互いの所在がわかればどうにか連絡は取れるもんだし要するに重要なことは『そのひとのことを覚えてるか』なのだから。
例えば、会社の同僚Aの友人のBに会ったとする。
彼は自分で会社を経営していて『とあるサービス』をやっている、なんて話を一年前にしたとする。
会社の近くで一度一緒にランチしてそれっきり。
あるとき仕事の関係でふと「あ、Aの友人で確かこのサービスやってるやついたな。参考に話聞いてみるか」となったら当然、Bの連絡先なんて知らなくてもAに聞けば良いのだ。
名前なんてうろ覚えで構わない。『ナニモノか』だけちゃんと覚えていれば。
それで十分じゃん、というのがここら界隈での考え方らしい。
そもそも『友人』という言葉のハードルの低さもアメリカ特有だろう。
その分、実は『人脈』という言葉を訳するにどうやら適切なものがないらしい。
「友達の友達はみな友達だ、それで十分じゃん、何かご不満でも?」
言語レベルでそういうベースがあると言えるのかもしれない。
だからといって日本語での『人脈』という言葉に含まれる打算的なニュアンスを包含した関係性の構築にアメリカ人は興味が浅いか、というとそんなことは全くない。
むしろアメリカ人の方がアグレッシブだ。
なぜならアメリカの方が日本よりも『個人に好かれることの重要性は高い』からだ。
まずひとつにそれは就職であり(ほぼ個人が決める)
さらに昇級や昇進の仕組みであり(ぶっちゃけ個人が決める)
就職活動とプロジェクト編成がほぼイコールである流動的な雇用体制も影響があるだろう。(つまりとある個人がほぼ全てを握ってる)
冒頭で言ったように性格上彼らにはそういう関係性の構築が向いているように思える。
タマゴが先かニワトリが先か状態だが、アメリカの社会はそのようにして成り立っているようだ。

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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