なぜ私はシェアリングエコノミーが嫌いなのか

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私はある種シェアリングエコノミーに対して否定的な態度だ。
以下長文になる。タイトルでイラッとした人は読まない方が良いだろう。きっとより一層イラっとするだろうから。
冒頭「ある種」と書いたのは弱めて言えば「限定的に」強めて言えば「だいたいは否定的で一部は違うけど」という意図だ。
最初にそこらへんを紐解いておかないと読みづらいと思うのでまずはそこから。
さて、シェアリングエコノミーには大きく分けて
・資産のシェアリング
・労働力のシェアリング
があると考えられる。
「労働力も労働者が持つ資産の一部だろ」という批判はここでは受け付けない。それらは思想も経済構造も根本的に異なるからであり、まさにその境界が私の「好き・嫌い」を明確に分けているからだ。
資産のシェアリングは初期は「遊休資産の活用」という発想から始まった。
その代表的なものがAirBnBである。
AirBnBは複数の不動産を所有している者にとっての新たなマネタイズの手法を提供し、またユーザーには比較的安価な宿泊手段を提供した。
徐々に投資目的で購入した物件をAirBnBで貸し出したり、マンションの空室を利用したり、様々な派生が生まれた。これは純粋なビジネスカテゴリの成長であり美しき市場の工夫と努力の産物だ。
これには近親の派生モデルとしてシェアオフィスがあるが、さらに発展させ、この概念的な系譜に属するものとしてシェアサイクルやシェアキックボードなどなど不動産に限らない「買い揃えた実用的な資産」を貸し出す発想も生まれた。これらはいわゆるレンタル事業の進化とも捉えられるため全くの新しい発想であるとは言い難いが、以前までの限られた物理的制約の中で行われていた「レンタル〇〇」が技術の力を借りてより大きな市場獲得を窺うレベルへと拡大したこと自体は見ていて感嘆を禁じ得ない。上手くいくカテゴリーもあればそうでないカテゴリーもある。市場適合性はとても重要だ(例えば中国ではアホみたいに流行ってるシェアサイクルは日本ではまだまだだったり)しかしこれらに工夫を凝らしながら様々な人々が様々なチャレンジをするのはとても気持ちの良いことだ。
さて、ここまででわかるとおり、これらは「好き」に入る。
自分でやろうと思うほどではないが、少なくともビジネスを発想した人たちを尊敬するし今まさに新たな派生を考えている人たちも応援したい。
ということでここで問題としたいのは後者
「労働力のシェアリング」についてだ。
こちらの代表格はUber、だが、続く事例というと枚挙に遑がない。
というのも、労働力のシェアリングに関しては要するに
「今までプロが行なっていた仕事をアマチュアが空き時間で行う」
という思想がベースになっていて、つまりこのコンセプトはどの領域でも侵食可能だからだ。
Uberのようなタクシー、DoorDashのようなフードデリバリー、バレットパーキング、掃除、洗濯、クリーニング、場所取り、etc.
なんでもかんでもこのシェアリングサービスの対象となった。
私はウンザリしてしまった。
これが2014~2016年ごろの話。私がエンジニアのパラダイスでありバトルフィールドでもあるシリコンバレーから離れることにあまり抵抗感がなくなっていた理由のひとつでもある。
私はこれらのビジネスに品位を感じない。
第一に、労働力を提供する労働者の大半がハッピーになっていないことだ。(実際にドライバーをやっている知り合いはそれなりにいたので、ある程度の偏りはあれどあながち適当な決めつけではないと断っておこう)
別のポストでも書いたが、ステークホルダーを皆納得させるのがビジネスの肝であり、それができているものこそが美しいビジネスだと私は思う。
例えばUberで話を進めると、まず利用してみて驚くのは圧倒的な安さだ。例えばSFO(サンフランシスコ空港)から当時の自宅に正規のタクシーを使うと安くても$40後半、高ければ$60くらいは取られた記憶がある。しかしUberなら$20–30で済む。こういった調子だ。最寄りのCalTrainの駅から自宅まで、Uberだったら$10を超えることはまずなかった。
この圧倒的低価格を成立させているのはUberの先進的(とは言い切れないまぁまぁ有用)なシステムと労働者の低賃金だ。
最近だと日本でも業務委託で会社に所属する道を選んだり、フリーランサーとして生きていくことを選択する人が少なくなってきた。その際に存在する常識として、
「不定期・不安定な雇用体系に対しては賃金は正規雇用より少々多めに支払われる」
という暗黙の了解がある。業務委託は正社員に比べてかなり容易に契約を切ることができるし、そもそも個人事業主であれば保険や年金、その他もろもろの諸経費は全て個人負担となる場合がほとんどだ。したがって多めにもらわなければ困ってしまうのだ。
しかしUberの運転手は相場よりも低い賃金しか受け取れない。なぜか?
ひとつには彼らがプロフェッショナルとしての教育を受けてないことであり、そのためサービス品質が必ずしも高いわけではないということが挙げられるだろう。先日もUber Eatsで頼んだ三千円の弁当が完全にひっくり返ってぐちゃぐちゃになっているのを晒していたひとがいてSNSでバズっていた。こういうトラブルは常に避けられない。
しかし、ここで重要なポイントは、現地でUberなどのサービスを利用したことがある人であれば必ず認識していること。
運転手の多くは移民であり、さらに言うと定職を持たない人が極めて多い。これは意思として定職についていない人のことではない。定職に就けない、つまり失業者である。
これは美談ぽく言えば「失業者に新たな収益を得る可能性を」とカッコ良く文脈を整えることができるのだろうが、実態は違う。
なお私のアメリカでの記憶は2016年以降はさほど高頻度に更新されているわけではないので印象はそれ以前のものが主体であるが、ここで問題にしたい重要なポイント、違和感、言い得ぬ憤り、は
「ここには自由市場における見えない強制が存在するのではないか?」
ということだ。
もっと露骨に言えば「搾取」である。
彼らは「低賃金だが無いよりマシだ」という選択肢を奪われた状況でしか下すことのない半ば思考停止による判断で、それらサービスを行い、最終的には労力と実入りを比較し、落胆するようになり、抗議して立ち上がるか新たな思考停止に堕ちるかするのだ。
これに対し「彼らがそれを自ら選んだんだから仕方ない」という自己責任に基づく反論があるのはよくわかる。
しかし彼らの多くがヒスパニックであったりその他マイナー国からの移民であるのを見たときに、完全な自由意志が働いた市場だとは到底思えないはずだ。
「そんなの何が悪いんだ」と言うひともいるかもしれない。
そもそも格差を利用した自由意志の皮を被った搾取というのは歴史上常に存在するのだから。
例えば米国では南北戦争時代には徴兵制があったが、しかしその徴兵を受けた際に「他者に金銭で委託すること」が可能だったらしい。そのためその後の米国における財界や政界の有名人たちは皆その「委託」を使ったという。それに応じたのは当然立場の弱い低所得層や移民たちだ。
また流石にその「委託」は非常に評判が悪く、次に生まれたのが「志願制だが米国籍者以外の志願も認める」というまたもや移民を狙いすました策だった。これは戦地に赴くことがそのままグリーンカードの取得に結びついている。
しかし「これらの行為は彼らの命の価値を貶め、搾取を行った!」と公然と批判するだけの材料は残念ながら十分ではないように思う。
とはいえどこかしっくり来ない。
このモヤモヤ感は私が労働力のシェアリングエコノミーに対して抱く嫌悪ととても似ているのだ。
ここまで読んでも私と同じようなモヤモヤが出てこない人にはこの問いを投げよう。
Uberで働くエンジニアが『勤務時間外はおれもUberのドライバーをやろうかな』と果たして思うだろうか?
さて余談。
なお私がUberにおいて直接出会った範囲でも「老後にもうちょっと何かできないかなと思って始めてみた」というおじいちゃんがいた。
長距離走ると疲れるので、近場を昼食後から帰宅ラッシュの前の15時くらいまでだけ(だからお客は大抵1人か2人、せいぜい3人だとか)軽く流す程度だけど、そうやって見知らぬ同乗者とおしゃべりするのが楽しいんだと言っていた。確かオランダ系の移民で現役時は物理学の教授だったと言っていた。彼は当然採算度外視でやっている。
こういう「素敵な体験を売るサービス」として結実させていれば、もうちょっとマシな着地もあったように思う。
そういう意味ではひとつの可能性を見せているのはLyft(Miselu時代のお隣さん)なのかも知れない。
さて、ちょっと視点を変えてそもそもの「シェア」というものについて考えてみよう。
実はそれが当初ある友人から私に投げられた問いかけであって、この思考(というか記憶の邂逅と概念の整理)のきっかけだったのだ。
そもそもの「シェア」とは日本語で言えば「共有」つまり誰かと何かを分け合うことだ。
よく子供に対して使うのは、おもちゃの取り合いなんかをしているシーンで「シェアしなさい」と言う。
「共有フォルダ」というのは仕事で見ることがあるかも知れない。誰でも自由に見て、場合によっては勝手に改変しても構わないファイルが入ったフォルダのことだ。
さて、ここには何か「無償・無制限・自由」というような要素が包含されている感覚を得る。
英英辞典を引くとshareの項にはこう書いてあった
a part or portion of a larger amount which is divided among a number of people, or to which a number of people contribute.
つまりここにも何か余分にあるものや大き過ぎるものをみんなで分けるような意味合いを感じる。
資産のシェアリングに対して私が感じる感覚はまさにコレだ。
AirBnBでは(例外はいくつもあるだろうが)遊休資産を抱えている人が、どうせ使っていないんだから誰かに使ってもらおうか、というshareの感覚でサービスを利用するところから始まった。それと消費者の「ホテルが高過ぎる」とか「ホテルが見つからない」などのニーズとフィットすることでビジネスとしてハマった。
だが、労働力のシェアリングはどうだろう。
彼らは(例外はそれなりにあるだろうが)別に悠々自適の採算度外視ではなく、定職がある方が好ましいにも関わらず、自由選択の余地なくそこに落ちてきたひとたちだ。そこでもし彼らに「定職を得るよりもこっちの方が全然いいや」と思えるだけの高収入がもたらされているのであれば見る価値がある話であったが、残念ながらそうはならなかった。(最近は多少の改善があるのかも知れないが)
実際Uberは幾度となく彼らのステークホルダーの極めて重要な一部であるドライバーたちとの関係性において深刻な問題を表出させている。しかし格差構造が取り仕切る労働市場においては、「下には下がいる。お前らがやらなくても他の誰かがやるさ」というスタンスでも、きっとサービスは回るだろう。むしろ競争原理が働いてくれてさらに胴元の利ざやが増えすらする。
またニーズ面について考えるとまたネガティヴな点に気づく。果たして、タクシー料金がいたずらに高騰していたり、タクシーの需給バランスが崩れたことにより全く掴まらなくて大変だ、というような社会的論議がなされていることはどれほどあるだろうか。全くゼロだとは言わないが(イベントなどの時期性とか地域性とか)しかしそこに社会的にクリティカルな課題感があったようには到底思えない。
つまりこれらのサービスは「ちょっと便利」とか「ちょっと安価」を持ち出して既存市場を破壊しにきたサービスのように見えることがほとんどだ。そしてステークホルダーに対する寄与が限定的かつアンバランスである。
大変嘆かわしい。
しかし後発のサービスは先行した成功例をフォローする。必然、誰しもが真似た。搾取のスタイルを。
そもそも社会的に物事が正しいかどうかを評価するときに考え方は割れる。なぜなら哲学の話になってしまうからだ。(ちなみに哲学というのは絶対に終わりがないことが特徴の厄介な学問である)
例えば、典型的な割れ方は「リバタリアニズム」か「功利主義」かだろう。それぞれの細かい定義は別途専門書にお任せするが、簡単に表現すれば「自由」を尊重するか「効用」を尊重するかだ。
リバタリアンの立場に立てば、とにかく重要なことは「誰かの自由が阻害されていないか」という点である。
それにおいては「サービス提供側」「それを利用する運転手」「それを利用する乗車客」誰もが「他にも選択肢がある状況」において「それ」を選択しているので何も自由が阻害されていない。運転手は別にプロの運転手なわけではないのだから、In ’n’ Outでバイトしようとビル清掃の仕事に就こうと自由なはずだ。奨学金を取ってStanford大学に入ってソフトウェアエンジニアになっても良い。
乗車客は当然ながら公共交通機関でも他の白タクでも、ヒッチハイクでも、好きに移動すれば良いはずだ。
したがって誰も何も阻害されていないし束縛されていない。
自由至上主義、資本主義万歳。だ。
一方、功利主義の立場に立てば「全体を見通して効用が高まっているか」が重要な点となる。
つまりサービス提供側はご覧の通りのビッグビジネスを構築したわけで問題なく効用は上がり、乗車客は低価格の移動手段を得て喜ぶ。運転手も多少の不満はあるだろうがいくらかの金をきちんと得ている。社会保障などさらなる要望もあるかも知れないがこれに応えないことで損なわれる効用は全体から見て小さい。これらを押しなべて総計すると、おおよそプラスに働いているはずだ。
多少の不満や犠牲は仕方ないとして全体の効用を最適化する。
社会は良くなっている。万歳。だ。
ふーむ。どちらにも引っかからないのに、
果たして私には何が引っかかっているのだろうか?
私は、これは、道徳や理性の問題であるように思う。
しかし、こういう単語は少々大仰で語りかける相手に厄介な難問をぶち当てられようとしているような警戒心を与えてしまう。
なので私はこの種の議論を持ち出すときに
「みんながハッピーか」
という言い方をするようにしている。(状況に応じて)
どこで幸せを感じるかというポイントは人それぞれだ。だから耳を傾けなければわからない。そしてもしそのフィードバックが得られたのであれば、それに対しては極めて真摯に取り組むべきなのだ。
思想の問題である。
当初からそのような思想に立って起こされた事業は、そもそもそんな問題には巻き込まれないだろうし、もし巻き込まれたとしても対応が優れていて然るべきだ。
不良品対応の良さで評価を上げる企業がある。逆に問題を隠蔽して評判を著しく下げる企業がある。これは算盤を弾いた上での打算ではなく、道徳や理性に基づく行動だ。
フォード社のピントの不良事故は非常に有名な話だが、設計者は不良を把握しておきながら経営者は修正によるコストアップよりも多少の火災が起きる方を選び、出荷した。本当にそういう算盤を弾いたらしいから驚きだ。
結果的には想定以上の事故が起き、多くの死傷者が発生し、大問題となった。
いちユーザーの目線に立てば極めて不合理な話だが、経営者が弾いたそろばんは(もし当たってたら)経済的合理性にそぐうものだったと言えるのかも知れない。
しかし、モヤモヤはそこではない、やはり道徳や理性の問題だ。
この事故で亡くなった方の、仮に今際の際に同席したとして、
「いやぁ、すみません、あなたは運が悪くもうすぐ死んでしまいますが、トータルでは我々が安くピントを販売できたことで全世界に大きく普及することができました。多くの大衆に車が行き渡り、これまで自家用車購入が難しかった家庭が、ほら、今度の週末は家族で山でキャンプですって。素晴らしいですね。いやぁ、ハッピーですよね」
と本気で言えるのかどうかだ。
本気で言えたら相当クレイジーだ。まぁイーロンマスクは言ってたけど。
労働力のシェアリングエコノミーはこのような点において極めて素性が悪いように感じる。
問題となることが薄々わかっていながら、目の前の利益のために梯子が外されるその日まで意識的に目をそらして突き進む。
表面上のPLやCFが良くなれば金が集まる。金が集まればみんながそれを真似る。
人類史上この手の失敗は幾度となく繰り返されている。
まだ記憶に新しいところでサブプライムローンだ。
そしてこの手の話は先行逃げ切りしたものが勝ち抜けし、後から流れに乗ったものの大半が逃げ遅れて死ぬ。
そんなこと皆知っているはずなのに乗るのだ。
「みんながハッピーか?」
そんな簡単で根元的な問いを投げかけに手を抜くことにより、あからさまな綻びから身を滅ぼす。
そこに費やす金と労力があればもっと世の中のためになることができないだろうか?
だから嫌いなのだ。
最後に労働力のシェアリングの中で私が「これはアリ」だと思っているものを挙げる。
それは「プロフェッショナルスキルの保持者を軸にしたサービス」つまりエンカウント率の改善をもたらすサービスだ。
職種によっては例えばハコモノ事業の場合、多くのプロフェッショナルスキルの保持者が箱の中に閉じ込められる。私が経験のあるものでは塾講師。他には医者、看護師、美容師、教師、介護士、カウンセラーなどなど。
彼らはサービス提供の範囲が限定される。箱の中でやる仕事だからだ。顧客のフローは固定的で変化は少ない。そしてそのフローをどうするかという面倒を見る(広告を打つ?どこかと提携する?などを考える)のは経営者の仕事であって彼ら個人ではない。
しかし、実際にはプロフェッショナルスキルの無駄(アイドルタイム)が発生しているシーンは多く在るのではないだろうか。
ここに何かしらのパラダイムシフト(意識や理解の変革)が与えられればそれは素晴らしいサービスになり、業界の目が開かれるのではないだろうか。つまりこれは単なる労働力のシェアリングではなく、スキルという「遊休資産の活用」なのだ。
それが何の差なんだ?
と首をひねる人もいるかと思うので、リバタリアニズムの少々突っ込んだ説明をもって補足する。
自由市場の成立の定義は本来「相互に納得いく価格で取引が行われること」である。
しかし、実際は市場取引のほとんどがそうなっていない。値札があらかじめ付けられていて「買う?買わない?」「Yes or No」なのだ。圧迫的、脅迫的、とまでは言わないが、明らかに自由度は低い。
消費者は購入物の値段を決めるのに充分な選択の幅がなく、売る側も過剰なコストダウン競争などの影響で実質的な自由がもたらされていないことも多い。
それら予定調和的なバランスを崩すことができるのがプロフェッショナルスキルだ。
例えばハリウッドセレブにひっぱりダコの美容師は一件で100万円以上稼ぐという。それが彼/彼女のスキルに対して金額的に見合った報酬なのかどうかはリバタリアンにとってあまり問題ではない。市場に充分な選択の余地があり双方合意に基づく取引なのであれば、これぞまさに「ビバ、資本主義」の実例なのだ。美容師の例においてはこの説明は充分であるように思う。エンジニアも概ねそうだろう(アメリカでは)
私はここにはひとつの可能性を見る。
が、それ以上の多くはここでは語らないでおく。
さぁどうだろう。色々とこねくり回した論理を展開したが、これらがもし似たようなモヤモヤ感を抱えていた方の思考を整理する一助になれば幸いだ。

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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