「人に興味がない」は、欠陥ではなかった
長く同じ業界にいて、それなりのポジションもいただいている。なのに私は「どこそこの誰々さん」に、まったく詳しくない。
むしろ逆のことが起きる。初対面の相手から「あ、クズリュウさんですよね」と言われる。こちらは相手を存じ上げないのに、向こうはこちらを知っている。長らくこれを、少し恥ずかしいことだと思っていた。
これは要するに、私が他人にあまり興味がないということだ。
自分でも薄々わかっていた。ただ、それをどう扱っていいのかわからなかった。人にもっと興味を持って、インプットを増やすべきなんだろう。そういう後ろめたさがずっとあった。
先日、それを改めて思う出来事があった。
面白かった本が、途中でつまらなくなった
テックジャーナリストのカーラ・スウィッシャーが書いた『世界を壊したビッグテックの悪党ども』を読んでいた。彼女はあの業界の内幕を、長いあいだ間近で取材してきた記者だ。私自身あの土地には馴染みがあるので、最初は楽しく読んでいた。
ところが途中で、興味がすっと引いた。
理由は自分でもはっきりしている。「結局これは、他人が張り合ったり、けなし合ったりしてきた話だな」と思った瞬間だった。その先を読む時間があるなら、何か作ることに充てたい。そう感じてしまった。
ひねくれていると言われれば、そうかもしれない。ただ、少し調べてみると、この現象にはわりときれいに名前がついていた。恥じるようなものではなく、ちゃんと説明のつく話だった。
「人への興味」は、一枚岩ではない
まず、好奇心は一種類ではない。
Kashdan らの五次元好奇心尺度(2018年)では、「社会的好奇心」は「愉快な探索」や「欠乏感受性」とは独立した別の因子として分離される。ざっくり言うと、他人の動向が気になる度合いと、何かを深く知りたい度合いは、測定上そもそも別物だということだ。
前者が低くて後者が高い。これは矛盾ではない。ごく普通の組み合わせのひとつにすぎない。
職業興味の世界には、もうひとつ有名な軸がある。Prediger の「人か、物か(People–Things)」という次元だ(Su, Rounds & Armstrong による2009年のメタ分析がよく引かれる)。興味の構造の中で、最も安定した軸のひとつとされている。
エンジニアや作り手の関心が「物」寄りに出るのは、欠損ではない。次元上の、単なる位置だ。
「知られてるのに知らない」は、失態ではなかった
もうひとつ、腑に落ちた話がある。いや、肚落ちした、と書くべきか。
人類学に、プレステージとドミナンスという地位の二分法がある(Henrich & Gil-White, 2001年)。ドミナンスは、力で従わせる地位。プレステージは、「何をやったか」に対して、みんなが自由意志で払う敬意だ。
このプレステージには、構造的な特徴がある。注意が下から上へ、非対称に流れることだ。実績のある人の名前は下に伝わるが、逆は伝わらない。
つまり「向こうは私を知っているが、私は向こうを知らない」という状態は、恥ずべき失態ではない。私が実績由来の敬意を、いくらか受け取っていることの、観測結果でしかなかった。
しかも面白いのは、私が興味を持てない相手というのは、たいてい「偉いけれど、何をやったのかよくわからない人」だということだ。これはちょうど、ドミナンス側の地位に当たる。
私は、自分が大事にしている評価軸(何を作ったか)を、他人を見るときにもそのまま当てているだけだった。少なくとも筋は通っている。
ついでに、友人関係のパラドックスという話もある(Feld, 1991年)。ネットワーク上、ほとんどの人は「自分より顔が広い人」に囲まれている。だから「自分は人脈が薄い」という主観は、統計的にはむしろ標準だ。
本がつまらなくなったのは、たぶん私が正しかったから
さっきの本に戻る。
途中で興味が引いた理由も、実は説明がつく。成功した人物だけを並べた物語というのは、情報の収率がとても悪い。
経営学に「失敗の過少抽出(undersampling of failure)」という指摘がある(Denrell, 2003年)。生き残った成功者だけをサンプルにした話からは、「何が成功につながったのか」をまともに推定できない、という話だ。同じことをやって消えていった大勢が、データから抜け落ちているからだ。
そこに後知恵バイアスと帰属の誤りが乗る。本来は運や構造で決まった部分まで、あの人の性格や才覚の物語に書き換えられていく。
「結局けなし合いの話だな」という私の感想は、ひねくれというより、収率の低さを検知した信号だったのかもしれない。固有名詞の索引をいくら増やしても、現象そのものの理解が増えるとは限らない。
ここまでで、正直かなり安心した。私のこのクセには、少なくとも四つか五つの軸から、それぞれ説明がつく。
だが、話はここで気持ちよく終わらせてはいけない、とも思っている。
ただし、免罪符にはしない
ここが本題だ。
まず、他人への興味を「情報」として見たとき、それはちゃんと役に立つ。Dunbar の議論(1996年)の要点は、うわさ話が単なる暇つぶしではないということだった。誰が誰と何をして、誰を裏切ったか。それを追うのは、人間関係を把握するための、れっきとした情報処理なのだという。
そして私の今の役回りを考えると、これは他人事ではない。
私はいま、NEP の伴走支援者(AR)をやっていて、複数社の顧問や社外の立場も預かっている。この仕事の少なくない部分は、要するにマッチングと媒介だ。誰と誰をつなぐか。ここで人を知らないことは、好みの問題ではなく、そのまま仕事の質に響く。
だから、分けて考える必要がある。
「名札としての人」と、「事例・構造としての人」だ。
前者、つまり肩書きや威信の記号としての人に興味がないのは、まったく構わない。そこは胸を張っていい。だが後者、ひとつの事例として、構造を宿した存在としての人に興味を失ったら、それは「探究したい」という私自身の申告と、正面から矛盾する。
私の「興味を持つまでのハードルが高い」という自己申告は、たぶん関心が低いのではない。閾値が高くて、越えたら深い、というタイプなのだと思う。だとすれば問題は、関心の総量ではなく、閾値の越え方のほうにある。
そんな私でもいい。ただし条件付きで
というわけで、結論はこうなる。
「そんな自分でもいいじゃん」は、幸運にも、だいたい支持できる。地位そのものではなく、作られたものに興味を向ける。この選好は正当だ。恥じる必要はなかった。
ただし、無条件ではない。
肩書きや威信としての人に興味がないのは、いい。だが、ひとつの事例としての人にまで興味を失ったら、それはもう探究ではなく、ただの手抜きになる。そこだけは、自分に釘を刺しておく。
やりたいことも試したいことも、たっぷりある。だから、そっちを優先する。それでいい。
ただし、肩書きに興味がないのと、人そのものに興味をなくすのとは、別の話だ。そこだけは、取り違えないようにしたい。
参考
- カーラ・スウィッシャー(新田享子 訳)『世界を壊したビッグテックの悪党ども テック業界”ほぼ”全史の取材録』講談社、2026年(原題 Burn Book: A Tech Love Story) Amazon / Kindle
- Kashdan, T. B., et al. (2018). “The five-dimensional curiosity scale.” Journal of Research in Personality.
- Su, R., Rounds, J., & Armstrong, P. I. (2009). “Men and things, women and people: A meta-analysis of sex differences in interests.” Psychological Bulletin.
- Henrich, J., & Gil-White, F. J. (2001). “The evolution of prestige.” Evolution and Human Behavior.
- Feld, S. L. (1991). “Why your friends have more friends than you do.” American Journal of Sociology.
- Denrell, J. (2003). “Vicarious learning, undersampling of failure, and the myths of management.” Organization Science.
- Dunbar, R. (1996). Grooming, Gossip, and the Evolution of Language.
この文章は原案・ディレクション:九頭龍、作文:AIで書いています。
