極端な成功に、本性はどこまで効くか

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創業神話には、決まった型がある

テック企業の創業ストーリーには、だいたい決まった型がある。

人見知りで、口下手で、ただ技術が好きだった若者。彼がふと作ったサービスが、恐ろしい速度で伸びて、気づけば世界を飲み込んでいた——という型だ。

この型には、ひとつ都合のいい性質がある。結果がどう転んでも、創業者本人の人格は問われずに済む。良い結果なら才能の話になり、都合の悪い結果なら「偶然そうなった」「あとから来た人間がやった」で片づく。

ここで、素朴な問いを立ててみる。桁外れの規模と、桁外れの影響。その極端な結果は、本人が最初から持っていた性質と、どこまで関係があるのか。それとも、ただの偶然なのか。

今回はこれを、善悪の判断をいったん脇に置いて、構造として検算する。

先に結論を書いておく。性質は効く。ただし、素朴に思うのとは違う効き方をする。

その直感には、名前がついている

まず、性質は効く、という側の理論から並べる。

ひとつは経営学の「刻印理論(imprinting)」だ。創業期に創業者が刻んだ価値観、ドメインの選び方、初期メンバーの性質は、組織にずっと残り続ける(Marquis & Tilcsik, 2013)。「あとから来た人間がやった」という説明への、直接の反論になる。

もうひとつが「CEOナルシシズム」の研究(Chatterjee & Hambrick, 2007)。コンピュータ/ソフト業界のCEO111人を、年次報告書での自分の写真の大きさ、プレスでの露出、インタビューでの一人称単数の多さ、No.2との報酬格差、といった非接触の指標で測っている。ナルシシズムが高いCEOほど、戦略が派手で、買収が多く、業績が極端に振れる。

ただし但し書きがつく。大勝ちか大負けかになるだけで、ならすと他と変わらない。これは後で効いてくる。

そして「ダークトライアド」(ナルシシズム、マキャベリズム、サイコパシー)の研究。これらの特性は、リーダーとしての有効性——うまくやれるか——より、リーダーへの浮上——そこに辿り着けるか——に強く効く、という報告が積み上がっている。しかも階層が上がるほど濃くなる。

つまりこうした性質は、結果の良し悪しを決めない。ただ、そのスケールの椅子の近くまで、人を運ぶ。

例として、ひとつの固有名を置く

具体例をひとつ置く。データ点としてのFacebook創業者だ。人見知りの技術好きが立ち上げて猛烈に伸びた、あの型の代表格として、よく引かれる。

事実だけ確認する。彼が公言する理想像はカエサルではなく、初代ローマ皇帝アウグストゥスだ。2018年のNew Yorkerでは、過酷なやり方で200年の平和を打ち立てた人物として言及し、そのトレードオフに関心を寄せている。新婚旅行はローマ。次女の名はAugust。

これは断罪の材料ではない。支配の設計に強い関心を持つ人物が、支配の設計を仕事にした、という一貫性の観測にすぎない。同じ一貫性は、広く賞賛される巨人の伝記にも、いくらでも見つかる。だから固有名は、ここでは主役ではない。構造を確かめるための一点だ。

十分条件としては、成り立たない

ここで、性質を持ち出す議論の限界を出す。

言いたいことには、二つの読み方がある。「あのスケールに達した人間は、たいてい元からその性質を持っていた」。これが必要条件の主張だ。もうひとつ、「その性質を持てば、あのスケールに達する」。これが十分条件の主張だ。

以下の理論は、そろって後者が成り立たないことを示す。前者は否定しない。むしろ前者だけが残る、という形で効く。

社会心理学の「リーダーシップのロマンス(Romance of Leadership)」(Meindl, Ehrlich & Dukerich, 1985)。人間は、組織の結果をリーダー個人に帰属させすぎる。とくに、大成功か大失敗かという極端な結果のときに、それが強まる。結果が出たあとで原因を人格に読み込む推論は、「結果 → 性質」を「性質 → 結果」の証明であるかのように見せる。必要条件を、十分条件に見せる装置だ。

Denrell & Liu(2012, PNAS)。極端なパフォーマンスほど、運の寄与が大きい。だから外れ値を評価するときは、もっと平均に引き戻して見るべきだ、とモデルは示す。さらに、激しい競争下では、期待実力が低い者ほど1位を狙って過剰なリスクを取る。つまり、性質を満たした集団の中で誰が実際に頂点に立つかは、運が決める。ここが、十分条件の空白を運が埋める段だ。

哲学の「道徳的運(moral luck)」(WilliamsとNagel)。結果が出たあとで性格を遡って読み込むこと自体が、疑わしいとされる論点だ。同じ性質を持ちながら結果を出さずに終わった人は、性格を問われずに済む。倫理学の言葉で言えば、「性質は十分条件ではない」ということになる。

見えないのは、通らなかった人たちだ

この主張の弱点も出しておく。反証可能性が低いことだ。

同じ性質の断片は、何者にもならずに終わった無数の人間の中にも、同じだけ見つかるはずだ。だが観測者は、極端な結果を先に見てから、あとづけで性質を探しにいく。だから「同じ性質を持ちながら、そのスケールに届かなかった圧倒的多数」が、構造的に視界に入らない。

この見えない大群こそ、「性質は必要条件ではあっても、十分条件ではない」ことの、生存者バイアスという名の証拠になる。

同じ数字がスポーツにもある。意図的な練習が説明できる実力差は、メタ分析で約18%。トップ選手だけに絞ると、たった1%だ(Macnamara et al., 2016)。幼少期からの節制は、代表というプールに入る必要条件ではある。だが、そのプールの中で誰が代表になるかは、ほとんど説明しない。

必要条件と十分条件を分ける

検算の結果を、こう置く。

性質と結果のあいだには、因果がある。ただし、その因果は必要条件としての因果だ。誰があのスケールの椅子の近くまで来られるか——ここは性質が効く。統制への志向、常軌を逸した執着、高いリスク選好。母集団はこうした資質に強く偏る。わりと決定論的だ。

その先、集団の中で誰が実際に勝つか——ここは運と過剰リスクが効く。思い切り確率論的だ。

そして就任後は、権力が元々の資質を拡大再生産する。刻印が組織に焼き付く。

ここが肝心なところだ。この構造は、善玉にも悪玉にも等しく効く。必要条件の段が選ぶのは「誰が巨大になれるか」であって、「その巨大が世の中にとって良いか悪いか」ではない。性質で説明できるのは、結果の入口までだ。結果の中身——それが尊厳を守るのか損なうのか——は、この段の外側にある。

だから、性質を持ち出す議論は有罪判決の道具にも使えるが、まったく同じ論理が無罪判決にも同じだけ使える。必要条件は、被告を選ばない。

一番きれいな言い方はこうだと思う。性質は必要条件であって、十分条件ではない。

そして必要条件は、通った本人にも、通らなかった無数にも、等しく無関心だ。そこに物語を足すのは、いつも後ろから見ている側だ。


参考

  • Marquis & Tilcsik (2013) “Imprinting: Toward a Multilevel Theory”, Academy of Management Annalsリンク
  • Chatterjee & Hambrick (2007) “It’s All about Me”, Administrative Science Quarterlyリンク
  • ダークトライアドとリーダー浮上に関するレビュー — リンク
  • New Yorker プロフィールのアウグストゥス発言(CNBCによる要約) — リンク
  • Meindl, Ehrlich & Dukerich (1985) “The Romance of Leadership” — リンク
  • Denrell & Liu (2012) PNAS ほか(本人の論文一覧) — リンク
  • Macnamara, Moreau & Hambrick (2016) Perspectives on Psychological Scienceリンク
  • “Moral Luck”, Stanford Encyclopedia of Philosophyリンク

この文章は原案・ディレクション:九頭龍、作文:AIで書いています。

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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