【番外編 vol.3】ギリシャ文字で組まれた、9つの戦術
―― 主人公が隠し持っていた、9つの切り札
シリーズもこれで最終回です。vol.1では「戦術がいつ生まれたか」、vol.2では「主人公が戦った敵は何だったか」をお話ししてきました。今回はいよいよ、主人公自身の武器――彼が組み上げた戦術体系そのものに踏み込みます。
『EXTRA TIME』の主人公は、未来の戦術を思いつきで使うわけではありません。一つずつギリシャ文字でナンバリングした体系として積み上げ、状況に応じて「解禁」していきます。α(アルファ)から始まり、最後の切り札 θ(シータ)まで、全部で9つ。
この9つは、思いつきの寄せ集めではありません。守りの土台から始まり、最後の一つで全てが束ねられる、一本の設計図になっています。年号の詳しい話はvol.1に譲って、ここでは「それが何をする戦術なのか」を中心に、解禁される順に一つずつ開けていきましょう。
守りの土台 ―― α と β
α(第一)ゾーン・ディフェンス。マンマークを捨て、ピッチを区画で守る。サッキのACミランが極限まで突き詰めた、イタリアの zona の思想です。すべての出発点が、この「人につくのをやめる」発想にあります。
β(第二)プレッシング(トリガー)。ただ追い回すのではなく、「ここで奪う」という地点を設計して、全員で連動して嵌める。サッキ、そしてロバノフスキーの科学的なプレスが源流です。守りを「待ち」から「狩り」へ変える一手。
革命の一手 ―― γ
γ(第三)異端のゴールキーパー。守りの最後尾だったキーパーを、攻撃の組み立ての起点に変える。作中では、元フィールドプレーヤーのキーパー、フレデリックがこの中心を担います。
これは1992年のバックパス・ルール改正(詳しくはvol.1で)を、未来から狙い撃ちにした戦術です。世界がこれを当たり前にするのは、2008年以降のペップ、2014年のノイアー、2017年以降のエデルソン。それを、何十年も先に手に入れている。物語のなかでも、特に「未来を知る男」らしさが出る一手です。
前で奪う ―― δ と ε
δ(第四)リベロ・プレス。相手の最終ラインに、ボールを”運ばせない”。前で時間を奪い、前で奪い切る。クロップのドルトムントが体現した発想です。
(――リベロ・プレスは本格的に確立されるのがクロップのボルシア・ドルトムント、2010年代。最終ラインから、相手にボールを運ばせなかった。その時間を奪うことで、相手を倒す)
ε(第五)偽9番 + 5秒カウンタープレス。二枚刃の戦術です。センターフォワードが”消えて”マンマークを崩す偽9番(1953年ヒデクチ→2009年メッシ)と、ボールを失った瞬間に最寄りの3〜4人で即座に奪い返すゲーゲンプレス。攻めの崩しと、守りへの切り替えを、一つの概念に束ねています。
形を変える ―― ϛ・ζ・η
ϛ(第六。「スティグマ」と読みます)可変3バック転換。守るときは4バック、攻めるときだけ3バックへ。試合中に陣形そのものを組み替える可変システムです。コンテの3バックが「固定」の名手だとすれば、こちらはその発想を”試合の中で切り替える”可変型へと押し進めたもの、と考えてください。
ζ(第七)アイソレーション + サイドチェンジ。片方のサイドに相手を圧縮させておいて、大きく逆サイドへ振る。孤立させた選手に、1対1の局面を作ってやる。ビエルサが磨いた、個を活かすための”お膳立て”です。
η(第八)流動性ランナー。3〜4人が絶えず入れ替わり続ける、流動性の最大化。作中では、相手の極端な守備を破る”答え”として、ビエルサの発想を軸に組み上げられます(ペップ、クロップも候補に挙がりました)。誰がどこにいるのか相手に掴ませない、体系全体に”水のような動き”を通わせる一手です。
最後の切り札 ―― θ
そして、θ(第九)。
これは決勝まで温存される、統合形の最終戦術です。三つの発想を一つに重ねています——2014年ノイアーの”スイーパーキーパー”(ゴールキーパーが11人目のフィールドプレーヤーになる思想)、2017年以降ペップの可変システムとインバーテッド・フルバック、そして1970年代クライフのトータルフットボールの流動性。これらを統合した、攻撃時 1-1-3-5。キーパーがハーフラインまで進出し、最後尾をリベロが締める、前代未聞の陣形です。
(――俺はそれをすべて重ねた極限形を用意してきた。ノイアーのスイーパーキーパー、ペップの可変システム、クライフの流動性――三つを統合した、攻撃時1-1-3-5)
α から始まった「人につくのをやめる」という小さな一手が、9つを積み上げた末に、全員が攻撃に参加する θ へとたどり着く。物語の戦術は、こうして一本の線でつながっています。
――と、きれいにまとめておいて何ですが、最後に一つだけ白状させてください。第一(α)から第八(η)までは、「フットボールオタクが本気で考えたら」という枠に、なるべく収めたつもりです。実在の戦術史と地続きの、“あり得る未来”として書きました。
けれど、θ だけは、あえてそこから意欲的に振り切っています。名作『キャプテン翼』は、常識を超えた発想の宝庫として愛されていますが、「作者があえてサッカーの常識を度外視したからこそ、あれほど自由な絵が描けたのだ」なんて言われ方をすることもあります。フィクションというのは、リアリティの一歩外に踏み出したときにこそ、いちばん輝く瞬間がある。第九には、その”ぶっ飛び”を一つ、思い切って入れてみたかったのです。宿敵マルコにも、そして戦術大国イタリアにも、盤面ごとひっくり返すような大混乱を味わわせてやりたい――そんな企みを込めた、私なりの挑戦状でした。
シリーズを終えて
三回にわたって、『EXTRA TIME』の戦術世界をお話ししてきました。
vol.1で「これらの戦術がいつ生まれたのか」を年表で押さえ、vol.2で「主人公が戦った”後進性”という敵」を描き、そしてvol.3で「主人公の武器そのもの」を並べました。
未来の戦術を、誰よりも早く、まだ言葉すら存在しない時代に実装していく。その一手一手が、物語のなかで実際にどう”決まる”のか――それは、ぜひ本編で見届けてください。長らくお付き合いいただき、ありがとうございました。
『EXTRA TIME』について
引きこもりだった男が、1980年のロンドンで28歳のイングランド人ディフェンダー「ジェームズ・ブレナン」として目を覚ます。頭の中にあるのは、半世紀分の戦術史。彼は3部の弱小クラブを率いて、α から θ までの戦術を一つずつ解禁しながら、世界の頂点を目指します。
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著/九頭龍 雄一郎
※ 戦術の年号・帰属は「物語の主人公の認識」をベースにしています。実在の人物は敬意ある中立的な描写に留めています。引用した(――…)は、主人公ジェームズ・ブレナンの心の声です。
