「中途半端なホワイトカラー」という罠
ホワイトカラーは勝ち組だ、と無邪気に言えた時代がかつてはあった気がする。
学歴を積み、スーツを着て、エアコンの効いたオフィスでキーボードを叩き、平均より高い給与を受け取る。工場やトラックで働く人たちと比べて、体は楽だし寿命も長いとされていた。実際、戦後の先進国は「ブルーカラーからホワイトカラーへの上昇」を豊かさそのものと同一視して走ってきた。
最近、ふとこの構図が怪しく思えることがある。
私は採用する側に何度も立ってきた人間だ。ベイエリアにいた時期に、レイオフされた中年ホワイトカラーがずっと職に戻れない姿を目の前で見たし、日本に戻ってからも「50代で席を失うと、次の席が根本的に見つからない」という話を何度も耳にする。年齢を重ねた人材の転職の難しさは、自分の実感としても率直に残酷だと感じる。
一方で、電気工事士や配管工のような手に職を持った人たちは、いまだに引く手あまたで仕事が終わらないと聞く。
疑ってみるべき前提
若い時にホワイトカラーで高い年収を得て、生活水準を引き上げる。
そのまま50代まで走れる前提で、住宅ローンを組み、子どもを私立に入れ、都市の中心部に住む。
ところがどこかで、静かに崩れる。
レイオフされる、適応できる新職がない、そもそも若いホワイトカラーはもっと安く代替可能。気づけば、生活水準は固定されているのに収入が消えている。
米Urban Instituteの研究では、50歳以上で同じ雇用主に5年以上勤めていた安定層のうち、28%が引退前に雇用主起因の大きなレイオフを経験するという(Urban Institute “How Secure Is Employment at Older Ages?”)。失業した場合の世帯所得中央値は大きく下落し、新職を見つけても大半の人は元の水準には戻らない。 大卒も非大卒も、この衝撃からの回復力にはほとんど差がないという報告もある。学歴はレイオフからは守ってくれないのだ。
一方で、ブルーカラーはどうか。
組合があり、ストライキができ、地域の縁があり、年功序列的な信頼も残っている。資格や熟練は年齢で失われないし、むしろ歳を重ねるほど価値が上がる仕事もある。
なんだ、ブルーカラーの方が幸せじゃないか、という仮説が頭をよぎる。
歴史は逆の事実を教えてくれる
ここで、慎重にならなければならない。
ノーベル経済学賞のアンガス・ディートンが共著でまとめた『絶望死のアメリカ 資本主義がめざすべきもの』(アン・ケース&アンガス・ディートン、みすず書房)は、実は先ほどのような仮説を叩き潰してくる。
1999年から2015年にかけて、米国で自殺・薬物過剰摂取・アルコール性肝疾患による死亡が激増したのは、他ならぬ大学非卒の白人ブルーカラー層だった。大卒層ではこれらの死亡率はほぼ横ばい。この間、非大卒白人男性だけで約50万人の超過死亡が発生している。これはAIDS危機の死者数と同規模だ。
つまり、私が想像していた「組合、地域、仕事の継承に守られたブルーカラー」はすでに過去のものなのだ。製造業の空洞化、組合加入率の激減、地域社会の崩壊。1970年代以降、アメリカのブルーカラーはずっと、構造的に撃ち抜かれ続けていた。
私が頭の中で描いていたブルーカラー像は、昭和のブルーカラーに近い。 現在進行形のブルーカラーではない。
そして、反転点にいるかもしれない
面白いのはここからだ。
どうも今、その関係が反転しつつあるらしい。
- 米国では熟練技能職(電気工、配管工、溶接工など)の退職が退職崖を迎えつつあり、需要が急拡大している
- 労働組合員は非組合員より平均11.2%高い賃金、健康保険加入率は39%高い(BLS Union Members Summary)
- そしてAIは、物理的な手仕事を直接代替しない一方で、ホワイトカラーのエントリー職を猛烈な速度で侵食し始めている
かつて「グローバル化+ロボティクス」が中西部のブルーカラーを崩壊させたように、これからは「グローバル化+AI」がホワイトカラーを揺さぶる番なのかもしれない。LSEのケース&ディートンの書評者は、それを globotics と呼んで、ホワイトカラー労働者も長年ブルーカラーが経験してきた絶望に合流する可能性が高いと書いていた(LSE Review of Books)。
この予感は、現場で人の出入りを見ている身としては、正直そんなに違和感がない。
AIコーディングの話を少しだけ
この文脈で、自分にとって比較的よくわかる領域として、ソフトウェアエンジニアリングの話も少しだけ書いておきたい。あくまで個人的な意見として。
AIコーディングの進化は、率直に言って劇的だ。2022年頃には「補完ツールとして便利」程度だったものが、2024〜2025年にかけては「仕様を渡せば、検証可能な単位で実装ごと返してくる」段階に到達した。Claude Code、Cursor、その他のエージェント系ツールの使いこなしを本気でやっている人たちは、もう「プログラマーが不要になる時代」を仮定の話ではなく射程の話として議論している。
これを書くと「いやいや、まだAIコードは間違いも多いし信用できない」という反論が必ず来る。数年前ならその反論はまっとうだったが、今この台詞を口にすると、この人はツールの選択や使い方を突き詰める努力を怠っているんじゃないかと、むしろ話者の側が疑われる空気になってきた。どのモデルを選ぶか、どうプロンプトを設計するか、どうワークフローに組み込むか、レビューとテストをどう回すか——このあたりを突き詰めている人と、そうでない人の差は、想像以上に大きい。私自身、幸運にもずっと現場に片足を置き続けてきたとはいえ、正直「知らない側」に立たされて慌てて追いかける場面が増えている。
そしてこれは、ホワイトカラーの中でも比較的「手に職」寄りで、AI耐性が高いと思われていたプログラマーの話だ。事務職、会計、法務、マーケティング、中間管理、その他の「手順化された知的労働」は、もっと直接的に圧迫されるはずだと考えている。
中途半端なホワイトカラー問題は、おそらくこの層から先に崩れる。
本当にまずいのは「中途半端な大多数」
ここまでの話を整理すると、構図はこうだ。
ひとつは、居場所を自分で確保できているホワイトカラー。自律性・希少性・ブランドに守られ、AIが来てもむしろツールとして使い倒す側に回れる。
もうひとつは、物理的・肉体的な仕事を担うブルーカラー層。伝統的にずっと厳しい環境に置かれてきたし、絶望死の研究が示す通り深刻なダメージも受けている。けれども、少なくとも「自分はホワイトカラーに上がれた、勝ち上がった」という自己認識から崩れ落ちる、というタイプの苦しみとは別の構造にある。
そして最後に、中間層のホワイトカラー。そこそこの年収、汎用的なスキル、若手で代替可能、しかし生活コストは固定。
この中間層こそが、一番構造的にしんどい場所にいる。落差の苦しみ、というものが一番響くポジションだと言ってもいい。
コロンビア大学のModrekらの研究は、中間管理職の抑うつ・不安が現場スタッフより高いことを示している(Modrek & Cullen, 2012, “Job Insecurity during Recessions”、および後続研究)。「上には権限がなく、下には責任だけある」「自律が中途半端にしかない」という典型的な板挟み。中間管理職は、完全な自律か総合的な自律のどちらかを与えられた方がよく、中途半端が最悪だと指摘される。
中途半端が最悪。まったくその通りだと思う。
CDCのデータでは、35〜54歳の白人ホワイトカラー管理職の自殺率は大きく上昇しており、あらゆる職業グループの中で最も急激な上昇を示したと報告されている。これは単なる個人のメンタルヘルスの話ではなく、構造から受けている傷と見るべきだろう。
Bullshit Jobs と Golden Handcuffs
この話は、さらに二方向から補強できる。
ひとつは、故デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)。
英国で実施されたYouGov調査では37%の人が自分の仕事を「意味のある貢献をしていない」と答えた。2023年にチューリッヒ大学のSimon Waloが Work, Employment and Society 誌に発表した論文は、この理論に初めて定量的な実証を与えている(Walo (2023) “‘Bullshit’ After All?”)。Graeberが名指ししていたホワイトカラー職種に就いている人は、自分の仕事を社会的に無用と感じる確率が統計的に有意に高いのだ。
グレーバーは shit jobs(ブルーカラーのきつい、しかし必要な仕事)と bullshit jobs(ホワイトカラーの高給な、しかし無意味な仕事)を峻別した。後者は名誉と威信に囲まれ、プロフェッショナルとして尊敬され、高給で、高い達成者として扱われる。が、本人は密かに「自分は何も成し遂げていない」と感じている。
もうひとつは Golden Handcuffs。
高給職を辞めるのが不可能に感じる現象は、論理ではなく神経系の問題だと臨床の世界では定式化されている。アイデンティティと職業・報酬の融合、集中リスク(退職金も住宅ローンも子の教育費もすべて同じ会社の株に連動)、社会的信号の失墜の恐怖。
論理としては「辞めて低年収でもやりたいことやれば幸せ」と分かっていても、神経系が許さない。
これは私も、キャリア相談を受ける側として、痛いほど実感している。
それで、どうするのか
こういう話を書くと、必ず「ではどうすればいいのか」という話を求められる。
正直に言うと、綺麗な処方箋はない。
ひとつ言えるのは、ホワイトカラーで走り続けることを前提にした生活設計は、もう成立しない前提だと思っておいた方がいい、ということ。
若いうちの高給を、そのまま生活水準に溶かしてしまうと、40代・50代で崩れた時のダメージが指数関数的に大きくなる。生活水準は一度上げると下げるのがめちゃくちゃ辛いし、家族もいるとそもそも自分一人の意志で下げられない。
高給の時期は、生活水準を上げるよりも、将来のオプション(資産、スキル、人脈、健康、家族との関係)を買う時期として扱うべきだ。これは綺麗事ではなく、構造的な防衛策として。
もうひとつは、居場所を自分で作れるホワイトカラーになるか、そうでないなら早めに別の軸を持つ、という二択を真面目に考えることだ。どちらかというと私は、幸運にも前者として居場所をそれなりに作れている側にいるが、これができる人は多くないはずだ。「どこかに雇われ続ければ安全」という前提で設計されたキャリアは、今後数十年で相当に厳しくなる。
そしてブルーカラーの方は、これから見直されるかもしれない。
手を動かす仕事、物理空間に紐付いた仕事、資格と信頼が効く仕事。これらはAIの第一波からは比較的守られていて、需要も人手不足で伸びる。「ブルーカラーを見下す」という暗黙の社会的前提は、もう少しで更新されていくのかもしれない。
最後に
ポジティブに見れば、私は幸運にも、ホワイトカラーの端の方で自分なりの居場所を作って生きてこれている側の人間だ。
自分の経営する会社があり、アドバイザーや顧問の仕事があり、大学でも教えている。これはラッキーな位置どりだと自覚している。
しかし、自分の周りを見ると、中途半端なホワイトカラーとして「こんなはずじゃなかった」を抱えている人が、本当に多い。勉強もしたし、それなりに働いたし、間違ったこともしていない。でも気づくと、行き場がない。
この人たちに必要なのは、多分、もっと早い段階で「ホワイトカラー信仰」を疑うきっかけだったのだと思う。
ブルーカラーの方が幸せ、とまで言うつもりはない。ただ、「ホワイトカラーで走り切れば勝ち」という前提を、そろそろ世代ごと疑い始めないと、次の10年〜20年はかなり残酷なことになる気がしている。
この文章は原案・ディレクション:九頭龍、作文:AIで書いています。
