clay tech

キャリアに悩めるあなたに

以前とある「漠然とした悩み」が話にあがり、私なりのコメントを返す、なんていうやりとりがありましたが、あとで振り返って、一般にも通用する内容だったなと思えたので以下にまとめ直してみました。
キャリアに対してどうモチベーションを保っていくか悩んでいる人にとって何かの参考になれば幸いです。
対象者は、
・ある程度キャリアを積んでいる
・現在やっていることが自分の成長に繋がっているのか確信が持てない
・どちらかというと他にやりたいことがある
というような人です。私のルーツはコテコテのエンジニアですが、以下に示すことはエンジニアに限った話ではないと思います。
モチベーションをキープする「良い方法」はないか?という文脈でスタートしています。
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モチベーションや技術的向上心はそれぞれの個人的な価値観に基づく話なので、あくまで「私はこう考えている」という話しかできませんが、
私はキャリアプランに応じてそれぞれの状況を「フェーズ」として捉えるのが良いと思っています。
総じて書くと、短期的につまらないことをやる時期や苦しい時期はあるかもしれないが、それをきちんと短いフェーズで切って徐々に積み上げていくことで一足飛びには行けなかった場所にたどり着く、と私は考えています。それと同時に「先のことをアレコレ予測や計画するのは難しいからあまりやりすぎない方が良い」とも。
私は大学院卒で就職をしましたが、20代前半は大企業の一員らしくとにかく基礎を勉強しながらの小間使いでした。
試作部品調達の手配をしたり、採用候補部品をひたすら交換しながら波形データを取ったり、データシートをかき集めて先輩やベテランエンジニアに見せれる形にドキュメント整えたり。CADの使い方を覚えたらひたすら先輩が決めた仕様や変更内容が満たされるように精度計算しながら基板作ってまた波形測って。
おそらく開発力でいったら同じ年頃の多くの高専卒のエンジニアやロボコン経験者などに比べたら恐ろしいほど低かったと思います。でも私はこの期間をひたすら「勉強」として捉えていました。
楽しいか楽しくないかで答えたら、きっと楽しかったと思います。
先輩が置いた部品の定数を何故その数値になるか自分なりに計算して聞いてみたり、EMCの達人のベテランの手足となって色々やりながら、深夜の野外サイト(当時は10m電波測定サイトが山奥の掘っ建て小屋にしかなかったのだ!)で2人っきりで親身に秘伝のタレ(笑)を教えてもらったり、ミーティングでは先輩たちの横に座りながら会社全体の開発のフローや各種ベンダーとの付き合い方を学びました。
20代後半は独立。何事も自分の意思で考え設計するようにしました。
そのせいでひどい目に何度も合いましたし労働時間は究極のブラックでしたが、あの七転八倒して何度も死にかけた苦労の時期がなければ自分の技術に自信を持つことは難しかったと思っています。(ここは話すと長すぎるので別の機会に)
ここではそもそもそのようなスタンスが許された環境が非常にありがたかったです。私のOJTだった先輩がちょうど部門長になるタイミングでその部門に引っ張ってもらいました。そんな偶然が重なったことによって話はとてもスムーズでした。
しかし、もし仮にそのような環境が整わなかったら?と考えるとおそらく何かしらのアクション、テンプレ的に書くと
・上司に担当の変更を願い出る
・部門長にチームの異動を願い出る
・人事や全社プロジェクトを頼りに異動の可能性をたぐる
・全部ダメなら転職する
を行うべきタイミングが来たのだろうと思います。ひとつポジティブなことは、私は振り返っても、仮に恵まれない状況に陥ったら迷うことなく上記のアクションを行なっただろうと自分で確信できることです。
それは上述の「短いフェーズで切って積み上げていく」という考え方は社会人になってしばらくした頃にはすでに私の中に定着していたからです。
アラサーは一転チームマネージメントでした。
ある程度「自分ができること」というのがが見えたので、チームを動かすことでさらにできることを拡張しようと思いました。そもそも性格的にマネージャーは向いているだろう思っていたので。
30歳前後でそういう管理業務をすることを「早過ぎる」「もっと開発やりたい」とネガティヴに捉える同世代もいましたが、私は結局のところ「実質的プレイングマネージャー(職位は上がっていない)」だったので人の責任でシコふんじゃった。くらいのノリで楽しんでやれました。
商品企画をやり、周囲を口説き、予算を確保し、チームを運営し、回路図も書き、ソースコードのレビューもし、EMC対策もやり、法務関係の話も整理し、開発予算の管理をし、日程を調整し、仕様を調整し、製造工場にたまに怒られ、プロモーションの段取りをし、必要があれば登壇だろうとヨドバシの店頭営業だろうとなんでもやる、と。
その頃、恩師には「人たらし」になることをことさらプッシュされました。しかし当時はさっぱり意味が捉えきれず、それが明確に実感として理解できたのはのちに日本でCTOをやった時でした。
色々仕込んでもらいました。企画の基礎、プレゼンのテクニック、開発費の見積もり、社内政治のコントロール、正しい社外活動のやり方、いかに我々は自由なのか。永遠の恩師を得たのがこの時期でした。
で、ヤマハのキャリアはお終い。
転職後の30代前半はひたすら挑戦でした。
MIT卒でAppleやGoogleでキャリアを築いてるやつらと自分はどのくらいやり合えるのか?
結論は、全然いけんじゃん。
日本の産業の停滞感は根強いですが、なんだ、やっぱ日本のエンジニアは世界で十分通用すんじゃん、と思いました。一方で彼らから学ぶことも多く、マインドがきちんとグローバルにシフトできた時期でした。
記事にしていただいたりもしていますが、この数年の価値観の拡大はすごかったなぁ。今になっても懐かしく思い返します。(ここも書き出すと長くなるから別の機会にしましょう)
30代後半はCxOをやること自体は決めていましたが、そもそもどういう風のふきまわしかわかりませんが、もう捨てたつもり(笑)の日本に何故か貢献したい気持ちがフツフツと出てきました。
そのひとつとして日本でスタートアップをやることはとても良い案のように思えたので日本に帰ることにしました。
エンジェル投資家になるには全く稼いでませんし(自慢じゃない。笑)、アドバイザーやサポート的な仕事に回るにはまだ早いと思いましたし、いちエンジニアとして生きるならシリコンバレーの方が間違いなく幸せです。それよりもむしろ自身でリファレンスになるような会社が作れないだろうか、という方が当時の私のモチベーションにはとてもフィットするアイディアでした。
シリコンバレーでは石を投げれば2個に1個は起業家に当たる状況で、それが高校の同級生とか近所のお兄ちゃんとか、親とか親戚とかにリファレンスとして存在するわけです。それによって若者は起業することを非常に身近に捉えるし、様々な参考になる話を若い頃から聞くことが可能になります。そういう社会的なインフラが整っていないことが日本の最大の弱点なので、ここに何か自分にもできることがあるのではないかと思いました。
結果、ビジネス自体の成果は残念ながらイマイチでしたが(そう甘くはない!)その後は40代に入って色々なひとにアドバイスしたり講演したりすることが(今のところは)許されているので、元々想っていたことは形を変えながらある程度は行えているように思います。
40代は幾分成り行きの部分はありますが純粋なエンジニアよりも経営者としての活動や、むしろさらに舵を切った社会活動のようなものの比重が上がっています。
エンジニアリングは当然大事ですし、未だに回路図も読めばトラ技は購読し、中国の怪しいアイテムを買ってはバラし、ときに集中的に時間をとってコーディングもしています。
しかしそんなことは私にとっては、プロスポーツ選手のジョギングや筋トレのようなもので、それをしているだけで褒められることも誇れることも何もなくてそんなのするのは当たり前。そこから更なるプラスアルファ、つまり社会的な価値をきちんとアウトプットすることが大事なことです。そしてそのために極めて重要なツールが経営です。
現在関係各社には技術戦略から資金調達、採用計画まで含めたサポートをさせていただいています。
さて、じゃあこれらキャリアプランを
「元々どのくらい考えていたのか?」というと
「いつも1 or 2フェーズ先までなら考えていたかな」
という程度が正直なところです。
ヤマハに入社するときに自分に技術力が足りないことは自覚がありました。電気電子工学出身ですが研究内容の関係もあって実態はほぼソフト屋だったので。
なので入社後の数年は周りの技術を徹底的に盗むことにしていました。そして3年後を目処に自力で設計できるようになろうと考えていました。
実際は入社2年半後の異動で新モデルのプロジェクトに抜擢され電気設計の主担当として合計4モデルほど市場に出しました。
その後は「一度自力で設計したやつ」になるのである種の独立性が発生し、もう誰かの下にアシスタント的につくことはなくなりました。
自力で設計し始める頃にはアメリカに対して意識が向いていました。
米国が電子機器業界で大きな市場だったというのもありますが、社会人として日本的組織の不具合や日本経済の成長鈍化が目につく中で、日本とアメリカの差はなんだろうとぼんやり考え、常にアメリカへの異動願いは出していたのですが幸か不幸かそれが通ることはありませんでした。
しかしその意識とパッションが生み出した様々な活動によって人脈が広がり、結果として渡米へつながったことに疑いはありません。(ここも話しだすと長いので別の機会に)
アメリカに渡るころには、将来的な起業に対してゆるぎない確信がありました。
まぁどうせ自分はそういう生き方しかできないだろうな、と思っていました。ただその当時はもうアメリカで一生やっていく気だったので(グリーンカードの申請もしていました)日本に帰って云々というのは正直想定外でしたね。
TripleWやっていた時が最悪(最高?)で、
未来について何も考えていませんでした。笑
良い意味では事業立ち上げに集中していたということでしたが、個人のキャリアに対する考えがすっぽり抜け落ちていました。Exitして大金持ちになって俗世からトンズラでもするつもりだったんでしょうかねぇ。キャリアはまだまだ続くというのに。お恥ずかしいかな30後半にもなって間抜けな話です。
で、今はというと、40代の前半は極力多くの事業に関わって、自分ができることを経営レベルで拡大したいと思っています。
例えば今ひとつM&Aの案件に関わっています。銀行からの大口融資を受けようとしている会社にも関わっています。学生やアラサー起業家の起業支援もやっています。ものづくり、コミュニケーション、AI、ヘルスケア、音楽、セキュリティ、未病、リハビリ、大気環境、医療従事者の業務環境整備、美容、全てが今の私のテーマであり活動領域です。
これらの積み重ねによって、40代後半を迎えるころには『やるべきことを迷わずやれる人間』になりたいと思っています。残念ながら不惑の40はそんなに甘くなくて、色々な幻惑や妄想や紛糾に支配されるダメダメな40です。もうちょっと進化したいなぁ。
今までの私は『自分の好みや想い』から製品を作ってみたり『圧倒的な社会ニーズ』を目がけて突進してみたりしました。しかし社会はそんなに都合よくできていませんし、様々なひとが様々なことを考えて市場が成り立っています。視点の多様性を広げることでまた違う「好みや想い」「ニーズ」が目の前に見えてきたら、一皮剝けるのではないかと自分で自分に期待しているわけです。
技術は世界共通のパスポートです。それさえあればどこにでも行けます。でもそれと「流行りの技術を身につけること」とはイコールではありません。
例えばAI(何故か最近AI関連のカンファレンスにスピーカーとして呼ばれることが多々あり。何故か)。私自身は独自AIの開発はとある会社で関わっていますが、そこで掴んだ肌感として
「この領域は恐ろしいスピードでコモディティ化が進むな」
と強烈に思っています。つまり「AI大好き、土日は大抵論文読んでます、AIと寝起きしてAIと死ぬのが夢」と胸を張って言える人以外は迂闊に手を出さない方が賢いと思います。
上記はあくまで個人のキャリアプランとしての視点ですが、結構甘い覚悟で「AIエンジニア」のイケてる感だけを短期的視点で獲得してのちのちのキャリアで苦しみそうな方々が跋扈している状況があります。まぁ私はそれを温かい笑みをもって眺めているんですけどねぇ。
実際はそれよりも社会実装の段で様々なハードルがまだまだ世の中には残っています。通信インフラだったりエネルギーの問題だったり、もっと違うレイヤではUI/UXの問題だったり。そちらを強みにした方が確実に社会には継続的に必要とされる技能になるのではないかと私は考えています。
50代はまだまだわからないことが多過ぎて、「きっと地球上にはいるんじゃないの」くらいしか言えません。笑
できること、やるべきことは世界中に溢れているので我々の人生を飽きさせることなんてないでしょう。
そんな感じで、積み上げたフェーズは全て繋がっています。繋がっているように見えます。後付けかもしれないけど。
私自身を決して鋭敏な先読みができている人間だとは思いませんが、不思議と全てが無駄ではなく、モチベーションを持続させ、きちんとシリアルに並べることができたもんだなと自分でも思います。
その中で重要なことは停滞させないことでした。
組織の都合はありますが、人生はあくまで個人のものです。もし何か停滞を感じるようであればあなたのキャリアプランは大変困ったことになるはずです。
一方で数年後のことはよくわかりません。
世界経済の歴史を紐解くと「実は西暦1600年くらいまでは経済発展らしい経済発展はなかった」と言われています。当然人間日々それなりに発展してきたわけで全く無かったなんてことはないのだろうけど、要するに近現代の数十年、数年での発展に比べたらハナクソに等しかったとの意味なのでしょう。そしてこの流れはこれからより速くなることはあっても遅くなることは恐らくない。それが起きるときは急激な人口減少と大恐慌とともに起きるでしょうからむしろ来ない方が嬉しい。したがって基本的に未来というのは予測できるものではなくなると理解すべきです。
一方でジェフベゾスは「経営者の仕事は3年後を見越して今何を仕込むか決めることだ」と言っていました。もしこれがことごとく正しく実行できるのであれば超常的と言わざるを得ません。しかし実際には今年、米国においてはウォルマートによる攻勢でAmazonは大きくシェアを減らしていると言われています。これが現実。
いくら、自分のキャリア、職位、周囲の環境、部署異動、上司、同僚、売り上げ、商品ラインナップ、etc. このような小さな問題に落とし込んでいったとしても、それを数年後を的確に予想して立ち回ることは非常に困難です。
社会人3年目くらいの時に母校の高校で登壇する機会をもらって高校三年生に対して「ぜひ5年後の自分のイメージを持ってみてください」と言った記憶があります。5年という数字に定量的な意味はなくて、これから大学生になる彼らに「大学を出た後」に自分がどうなるか、どうしたいかを考えてみて、というメッセージでした。
某MITの有名な方が「遠いゴールと目の前の課題だけ見る」と言っていましたが共感できます。1, 2年後の詳細なプランには意味が無い、ということです。キャリアプランは遠目のゴール(私の中では3年から5年後くらい)だけ持っておいて、そこに向かって目の前のものを潰すことに全力を注ぎ、折に触れて「遠目のゴール」に向かってきちんと向いているかを確認するわけです。
目の前のこときっちりやれない人間に先はありません。でも目の前のことをこなした先がゴールに向いていないようであれば無理にやる必要性は、個人のキャリアの観点においては、全くありません。
その2点をきちんとバランスさせることが「良い方法」なのではないかと思います。
TripleWを退いた直後、「アラフォーはプライムタイムだからね」とアドバイスを下さったエンジェル投資家の方がいました。
確かにそれは統計的にも正しくて、Exitするスタートアップの経営者の年齢は実は40代が一番多く、それら多くの創業時期はアラフォーだそうです。
これは一度や二度痛い目を見た人間が満を辞してこれまでの経験と人脈をフル動員した会社が最も成功率が高い、という言い方ができるのではないかと思います。流石の的を得たアドバイスです。本当にありがたい限りです。
しかしながらこれは「起業」という側面では間違いなく正しく、
一方「キャリア」という側面ではむしろプライムタイムは常に存在するように思います。(これまでもこれからも)
キャリアは一度成功したからといって勝ち抜けはできません。
立ち上げたスタートアップをバイアウトして大金を得て、それで浮世から姿を消してしまう人というのは実際にはかなり稀です。みなその後も社会と関わり続けます。キャリアは終わるどころか次のフェーズのスタートラインに立たされるだけなのです。
ある程度長期的な視点でキャリアを見つめ、逆に数年の出来事に関してはある程度成り行き任せ、ただし目の前のことに全力で取り組んだ先に長期的なゴールがあると信じることができる状況を整える。
これが幸せな社会人になるためのコツ、
悩みへの回答なのではないかと思います。

qzuryu

九頭龍 'kuz' 雄一郎 エンジニア/経営者, 日本の大企業からシリコンバレーのスタートタップまで多種多様な千尋の谷に落ちた経験を持つ。 株式会社ClayTech Founder/CEO, 監査役DX株式会社 Co-founder/CTO, 株式会社スイッチサイエンス取締役, 株式会社2nd-Community取締役, 東北大学客員教授, 東京工業大学非常勤講師, 武蔵野美術大学非常勤講師, 他複数社の顧問など。

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